[レビュー]
■「北本アーツキャンプ」に参加してきた
北本市で、アートで市を活性化させるためのプロジェクトが始まった。初日の8月11日、私は夕方から行われた「オープンディスカッション」に参加した。話を聞きながら、この活動は、北本という一地域の問題ではなく、埼玉全域における今後の芸術活動について考える上で、非常に示唆に富むものであると感じた。そこでこの欄では、何回か続けてこの催しについて報告することにする。
本事業は、北本市の石津けんじ市長自らの発案で始まったものである。石津氏は2003年、39才の若さで市長に初当選した。就任当初から、芸術活動を用いて市を活性化させたいという希望を持っていたようだ。そんなところへ2005年の9月、北本市文化センターにおいて、市内在住の美術家、永山聡子さんらによる2人展が行われた。そして、そこに石津市長が訪れたことから話は始まる。
このときの永山さんの展示作品は一般的な日本画が中心だったが、資料の中に掲載されていた旧作の大がかりなインスタレーション作品を見て、市長はかなり衝撃を受けたようだ。市長は、このような現代的な美術作品を集めて展覧会をやりたいという想いを永山さんに語り、協力してもらえないかと相談を持ちかけた。そこで、永山さんが私の方に話を振り、さっそく翌月、永山さんとともに市長と会うことになった。
市長は、どこかで「大地の芸術祭」のことを耳にしていたようで、予算はないのだが、あのように世間の耳目を集められる催しがやりたいのだという。そこで私は、「大地の芸術祭」のような大規模な展覧会をやるのなら、文化予算ではなく土木予算で対応するべきである。だがそれよりも、予算はかけずに時間をかけて、地域に根づかせていくような催しの方が意味があるのではないかというようなことを話した。そしてそれ以降、私にも永山さんにも連絡はこなくなった。
そんなことがあったこともすっかり忘れていた今年7月の末、「埼玉県北本市でアーツなプロジェクトを考えるためのキャンプ。」が開かれるという情報が、まったく別なところから飛び込んできた。これをMLで流してくれたのは、この事業を担当している同市生涯学習課の五十殿彩子(おむかあやこ)さんという人だった。
ところで、石津市長は昨年、2度目の市長選を勝ち抜いていた。自治体の首長には、1期目は文化事業に手を出してはならないという鉄則がある。文化事業には落とし穴が付きものだからだ。2期目となり安定政権に入ったことで、石津氏はようやくその本領を示し始めたのだろう。そこでさっそく、念願だったアート・プロジェクトを稼働させたわけである。
新年度に入り、市長は、たまたま知遇を得た東京藝術大学の熊倉純子さんに改めて相談を持ちかけた。市長は、私のときと同様、お金はないが「大地の芸術祭」のようなことをやりたいと言ったらしい。そこで熊倉さんは、やはり私と同じように、時間をかけて地域に根づいていくような催しにした方がよいと諭し、その参考として熊倉さん自身が関わっていた取手アートプロジェクト(TAP)を紹介した。TAPというのは、1999年から茨城県取手市において、市民と市、東京芸術大学の三者が共同で行なっているアートプロジェクトで、現在、その成果を確実に見せてきている。
北本でのプロジェクトを実現させるに当たり、熊倉さんはまず、TAPをともに推進していた水戸芸術館の森司さんに協力を求めた。そこで森さんは、手始めに日比野克彦氏が行っている「明後日朝顔プロジェクト」を取り入れることとした。そして、その下見のとき藤浩志さんを誘い、この町で何かできないかと誘い水を差したそうだ。しかし、街中をしばらく散策したものの、藤さんには何のアイデアも浮かんでこない。それならば、ここで何ができるかを考えるためのプロジェクトをやるしかないじゃ~んという話になり、この催しが急遽、実現することとなったわけである。
私が訪れたのは、初日の夕方に開かれた「オープンディスカッション」だった。このディスカッションは、毎夕、開かれることになっていたが、初日には金沢21世紀美術館館長の秋元雄史さんが来るというので、私は迷うことなくこの日に行くことにした。
実は秋元さんは、1980年代に盛んに作品発表を行っていた美術家だった。私が画廊まわりを始めたころ、ちょうど彼も発表を始めたということもあり、当時はけっこう親しくしていた。中野にある実家にもおじゃましたし、ゆかりさんとの結婚式にも出席した。近藤幸夫さんがギャラリーなつかで展覧会を企画した折、そこに出品することになった秋元さんの紹介文をなぜか私が書いたこともある。
ところがどんな因果か、彼は1991年、突然、直島コンテンポラリーアートミュージアム(現ベネッセアートサイト直島)開設のため、岡山のベネッセコーポレーションに勤務することとなった。もちろん美術家としての活動もそれきり途絶えた。そしてそれ以降、私たちはほとんど顔を合わすこともなくなった。この日、久しぶりにあった秋元さんは、髭を蓄え体もずいぶん大きくなっていたが、時おり裏返るハイトーン・ボイスはまったく変わってなかった。
この日の演題は「アートでできること。難しいこと。」となっていた。私は、当然のことながらこれは秋元さん自身が出したテーマだと思い、彼にしては意外に後ろ向きだなという印象を持った。ベネッセから金沢に移ったことで、何かプレッシャーを抱えているのではないかなどと勘ぐってみたりもした。ところが話を聞くと、これは企画者たちが勝手に決めたものだそうで、結局最後まで、アートで「難しいこと」については語られることはなかった。以下、秋元さんの談話を、思い出すままに書き綴っていく。
秋元さんは、主にベネッセアートサイト直島の変遷について語った。美術館は何とか開館したものの、直島にはほとんど人が来なかった。そうこうするうち、ベネッセの職員からも見離されるようになった。職場にもだんだん居づらくなり、1人で島の中を回りながら住民と世間話をするようになった。彼らと話す中で改めて知ったのは、彼らもまた自分たちが住んでいるこの島を見捨てているという現実だった。
秋元さんは、都会と同じようなやり方でここで展覧会をやっていてもだめだと思うようになった。それより、住民の協力を得て、美術館の外で展示事業ができないかと考えるようになった。彼自身にも、単に作品を借りてきて展示するのでなく、作家としての経験を活かして、アーティストとともに活動してみたいという思いがあった。それが、その後、注目されることとなる直島固有のコミッション・ワークへとつながっていくわけである。 この活動が始まると、秋元さん自身、アーティストとの共同作業によってしばしば救われることがあったと言う。どんなときにも前向きに対処していく彼らの姿は、周囲の人たちに希望を与えてくれるのだ。「苦しいときのアーティスト頼み」などという洒落言葉も浮かんでくる。そして、その成果は2000年に行われた「スタンダード」展で結実する。秋元さんは、何をするにもとにかく時間をかけることが大切だと強調した。
ところで美術館が開館したころ、島を訪れる観光客は年に1000人ほどだった。それが今、28万人にまで膨れ上がっている。これは、島内で受入れられる許容量をはるかに超える数だ。しかし実際には、今のところさほど大きな問題は起きていない。それは来島者の階層が影響しているようだと言う。通常、観光地で問題になるのは、まず来訪者のマナーの悪さである。ところが直島の場合は、ほとんどが美術鑑賞を目指してくる、一定以上の階層の人たちなので、そういった問題がほとんど起きないのである。
近年、ベネッセは、観光客向けのサービスと、住民向けのサービスという二重構造化を目指している。住民向けの部分では生活環境の改善が主となり、そこで行われる活動は一般的な美術の枠を超えてきている。北川フラム氏が館長となった今、ベネッセ直島ミュージアムは新たな段階に入っている。
秋元さんの話に引き続き、藤浩志さんが、日中、行われたワークショップの話と併せて、自らの制作姿勢について語った。アーティストだけあって、彼の言葉からは、聞く人の想像力を喚起させる表現が次々と飛び出してくる。そこで彼の話を、私なりの解釈を交えながら反芻してみたい。
藤さんはまず、このような話し合では「と」が大事だと語った。「私とあなた」の「と」である。これは、いわゆる言葉の二人称性ということであろう。一般に、抽象的な話をするときには三人称言葉の方が便利である。日本の将来をどうするかとかいったことは、私とあなたの間だけでは決めることができない。「2人のため、世界はあるの~」とは言うが、それは一時の倒錯した世界観だ。
それに対して、目の前で起こっている問題を考えるときはやはり二人称の方が有効である。意見を真っ正面から突き合わせることができる。居酒屋でビールにするか焼酎にするか決 めるのに、周りのお客さんの気持ちを推察してもしかたがない。
このワークショップも、今、まさに北本で何が始められるのか考えようとしているわけである。そのためには、市民全体のためとか、街の将来のためといったように大風呂敷を広げたとたん、たちまち袋小路に突き当たってしまう。北本市民が考えるアートは千差万別だし、街の将来などといったら雲をつかむような話だ。見えない人のためのアートなどというものは、この世に存在しないのだ。
さらに言えば、ここに集まった人たちだってアートの好みは皆違う。じゃあそれぞれ勝手にやればよいかというと、それでは永遠に社会性が持てない。そこでとりあえず、あなた「と」私で何ができるのかを考えようというわけである。そこを出発点として、初めて、二人称から三人称へと広がっていく可能性が探れるということなのだろう。
藤さんは、これまで自分が行ってきたいくつかのプロジェクトについて紹介してくれた。そのひとつに「かえっこプロジェクト」というのがあった。これは、子どもたちにいらなくなったおもちゃを持ってきてもらい、それに「カエルポイント」(価格)をつけて展示する。そして、展示されたものの中から自分がほしいものを、カエルポイントで買うことができるという決まりである。飽きてしまったおもちゃは始末に困るし、交換と流通の仕組みもなかなか子どもには教えにくい。これらはいずれも、社会では扱いにくい問題として置き去りにされている。ところが藤さんは、その2つを結び付けることで、アートによってそれぞれの問題点をみごとに解決したのである。 藤さんが作品を作るときの出発点となるのは、ふだんの生活の中で感じるズレや違和感だそうだ。それを彼は「もやもや」と呼んでいる。そして、その溝を埋めたり覆い包んでいけるものを考え出すのだ。そこで浮かんできたイメージに形を与えるうち、少しずつ作品が完成してくるわけである。
「もやもや」を解決するために、世間の常識は役に立たない。だからといって非常識はだめだ。新たなイメージを導き出すことのできる唯一の道具を、藤さんは「超常識」と呼んでいる。
この「超」という語には、ひとつの枠の中に収まっているのではなく、かといってその外側にあるのでもないという印象がある。要するに、異なる2つのものを超越して包括(止揚)するような、1段階上の思考を目指しているのだろう。だからこそそれを見つけ出すには、提案と実験(帰納と演繹)の繰り返しが必要となるのだ。完成されたアートはすでに常識の範疇にある。藤さんが、完成された芸術品のことを単数形で「アート」と呼び、何かを生み出すための営みのことを複数形で「アーツ」と呼び分けているのも、そこに理由がある。
藤さんは「ヴィジョン」という言葉を好まない。すべてのものは、目的のないところから発生するという主張があるからだ。目的は生まれてくる。だから私たちは、その生まれつつある状態を大切にしなければならない。行政がヴィジョンを語るときによく使う、使役動詞的な「活性化」という言葉を、彼は能動的に「豊醸化」と言い代えた。
藤さんの発言の中で私が特に関心を持ったのは、藤流経済学の話であった。聴講者の一人から「アートはなぜお金がかかるのか」という質問が出た。それに対してまず司会の森さんから、お金をかけないやり方もあるが、アーティストが生活をしていることも忘れないでほしいという発言があった。
それを受けて藤さんからは、生活のことは考えなくてくれなくてよいと勇ましい答えが返ってきた。彼いわく、アーティストは、何となれば人から物をもらって食べることもできる。事実、自分は、福岡の片田舎に住んで、近所の人から野菜などの施しを受けてしのいでいる。それよりもアーティストは、与えられた予算の中でどこまでやれるのか、それをもっと真剣に考えてもらいたい。今日のアーティストの多くは、よりよい作品を作るためしばしば自腹を切って制作してしまう。藤さんはこうしたやり方に非常に批判的なのだ。
実際に美術家たちは、これまで、作品を発表するとき自ら経費を負担するのが常だった。貸し画廊はそのよい例である。もちろん貸し画廊には、それを隆盛に導いた社会的な要因があったわけだが、現在、その必然性が徐々に薄まってきている。美術家は自然発生的に生まれるのではなく、やはり社会に承認されることで存在しているのだ。
戦後、多くの美術家たちは、教員などを行う傍ら、作品の制作と発表を行ってきた。生業から得た収入を美術活動に転用することで、美術家としての地位を築いてきたのだ。だからそこでは、作品の発表とそれに対する対価の支払いという交換関係が成り立っていなかった。 ところが戦後日本の復興を支えた経済成長期が終焉し、1990年以降になると、大学卒業したての若いアーティストたちには条件のよい仕事がなくなっていった。今のようすでは、かつての好景気が再来する可能性も極めて薄い。これからは、アーティストも一般的な経済原則に則り、与えられた予算の中で何ができるのかを考えざるを得なくなっているのかもしれない。
懇親会の後、私は、アーティストもそろそろ「かえっこプロジェクト」に参加する時期かなあどと考えながら、真っ暗な北本の夜道をわが家へと向かった。
■「北本アーツキャンプ」に参加してきた
北本市で、アートで市を活性化させるためのプロジェクトが始まった。初日の8月11日、私は夕方から行われた「オープンディスカッション」に参加した。話を聞きながら、この活動は、北本という一地域の問題ではなく、埼玉全域における今後の芸術活動について考える上で、非常に示唆に富むものであると感じた。そこでこの欄では、何回か続けてこの催しについて報告することにする。
本事業は、北本市の石津けんじ市長自らの発案で始まったものである。石津氏は2003年、39才の若さで市長に初当選した。就任当初から、芸術活動を用いて市を活性化させたいという希望を持っていたようだ。そんなところへ2005年の9月、北本市文化センターにおいて、市内在住の美術家、永山聡子さんらによる2人展が行われた。そして、そこに石津市長が訪れたことから話は始まる。
このときの永山さんの展示作品は一般的な日本画が中心だったが、資料の中に掲載されていた旧作の大がかりなインスタレーション作品を見て、市長はかなり衝撃を受けたようだ。市長は、このような現代的な美術作品を集めて展覧会をやりたいという想いを永山さんに語り、協力してもらえないかと相談を持ちかけた。そこで、永山さんが私の方に話を振り、さっそく翌月、永山さんとともに市長と会うことになった。
市長は、どこかで「大地の芸術祭」のことを耳にしていたようで、予算はないのだが、あのように世間の耳目を集められる催しがやりたいのだという。そこで私は、「大地の芸術祭」のような大規模な展覧会をやるのなら、文化予算ではなく土木予算で対応するべきである。だがそれよりも、予算はかけずに時間をかけて、地域に根づかせていくような催しの方が意味があるのではないかというようなことを話した。そしてそれ以降、私にも永山さんにも連絡はこなくなった。
そんなことがあったこともすっかり忘れていた今年7月の末、「埼玉県北本市でアーツなプロジェクトを考えるためのキャンプ。」が開かれるという情報が、まったく別なところから飛び込んできた。これをMLで流してくれたのは、この事業を担当している同市生涯学習課の五十殿彩子(おむかあやこ)さんという人だった。
ところで、石津市長は昨年、2度目の市長選を勝ち抜いていた。自治体の首長には、1期目は文化事業に手を出してはならないという鉄則がある。文化事業には落とし穴が付きものだからだ。2期目となり安定政権に入ったことで、石津氏はようやくその本領を示し始めたのだろう。そこでさっそく、念願だったアート・プロジェクトを稼働させたわけである。
新年度に入り、市長は、たまたま知遇を得た東京藝術大学の熊倉純子さんに改めて相談を持ちかけた。市長は、私のときと同様、お金はないが「大地の芸術祭」のようなことをやりたいと言ったらしい。そこで熊倉さんは、やはり私と同じように、時間をかけて地域に根づいていくような催しにした方がよいと諭し、その参考として熊倉さん自身が関わっていた取手アートプロジェクト(TAP)を紹介した。TAPというのは、1999年から茨城県取手市において、市民と市、東京芸術大学の三者が共同で行なっているアートプロジェクトで、現在、その成果を確実に見せてきている。
北本でのプロジェクトを実現させるに当たり、熊倉さんはまず、TAPをともに推進していた水戸芸術館の森司さんに協力を求めた。そこで森さんは、手始めに日比野克彦氏が行っている「明後日朝顔プロジェクト」を取り入れることとした。そして、その下見のとき藤浩志さんを誘い、この町で何かできないかと誘い水を差したそうだ。しかし、街中をしばらく散策したものの、藤さんには何のアイデアも浮かんでこない。それならば、ここで何ができるかを考えるためのプロジェクトをやるしかないじゃ~んという話になり、この催しが急遽、実現することとなったわけである。
私が訪れたのは、初日の夕方に開かれた「オープンディスカッション」だった。このディスカッションは、毎夕、開かれることになっていたが、初日には金沢21世紀美術館館長の秋元雄史さんが来るというので、私は迷うことなくこの日に行くことにした。
実は秋元さんは、1980年代に盛んに作品発表を行っていた美術家だった。私が画廊まわりを始めたころ、ちょうど彼も発表を始めたということもあり、当時はけっこう親しくしていた。中野にある実家にもおじゃましたし、ゆかりさんとの結婚式にも出席した。近藤幸夫さんがギャラリーなつかで展覧会を企画した折、そこに出品することになった秋元さんの紹介文をなぜか私が書いたこともある。
ところがどんな因果か、彼は1991年、突然、直島コンテンポラリーアートミュージアム(現ベネッセアートサイト直島)開設のため、岡山のベネッセコーポレーションに勤務することとなった。もちろん美術家としての活動もそれきり途絶えた。そしてそれ以降、私たちはほとんど顔を合わすこともなくなった。この日、久しぶりにあった秋元さんは、髭を蓄え体もずいぶん大きくなっていたが、時おり裏返るハイトーン・ボイスはまったく変わってなかった。
この日の演題は「アートでできること。難しいこと。」となっていた。私は、当然のことながらこれは秋元さん自身が出したテーマだと思い、彼にしては意外に後ろ向きだなという印象を持った。ベネッセから金沢に移ったことで、何かプレッシャーを抱えているのではないかなどと勘ぐってみたりもした。ところが話を聞くと、これは企画者たちが勝手に決めたものだそうで、結局最後まで、アートで「難しいこと」については語られることはなかった。以下、秋元さんの談話を、思い出すままに書き綴っていく。
秋元さんは、主にベネッセアートサイト直島の変遷について語った。美術館は何とか開館したものの、直島にはほとんど人が来なかった。そうこうするうち、ベネッセの職員からも見離されるようになった。職場にもだんだん居づらくなり、1人で島の中を回りながら住民と世間話をするようになった。彼らと話す中で改めて知ったのは、彼らもまた自分たちが住んでいるこの島を見捨てているという現実だった。
秋元さんは、都会と同じようなやり方でここで展覧会をやっていてもだめだと思うようになった。それより、住民の協力を得て、美術館の外で展示事業ができないかと考えるようになった。彼自身にも、単に作品を借りてきて展示するのでなく、作家としての経験を活かして、アーティストとともに活動してみたいという思いがあった。それが、その後、注目されることとなる直島固有のコミッション・ワークへとつながっていくわけである。 この活動が始まると、秋元さん自身、アーティストとの共同作業によってしばしば救われることがあったと言う。どんなときにも前向きに対処していく彼らの姿は、周囲の人たちに希望を与えてくれるのだ。「苦しいときのアーティスト頼み」などという洒落言葉も浮かんでくる。そして、その成果は2000年に行われた「スタンダード」展で結実する。秋元さんは、何をするにもとにかく時間をかけることが大切だと強調した。
ところで美術館が開館したころ、島を訪れる観光客は年に1000人ほどだった。それが今、28万人にまで膨れ上がっている。これは、島内で受入れられる許容量をはるかに超える数だ。しかし実際には、今のところさほど大きな問題は起きていない。それは来島者の階層が影響しているようだと言う。通常、観光地で問題になるのは、まず来訪者のマナーの悪さである。ところが直島の場合は、ほとんどが美術鑑賞を目指してくる、一定以上の階層の人たちなので、そういった問題がほとんど起きないのである。
近年、ベネッセは、観光客向けのサービスと、住民向けのサービスという二重構造化を目指している。住民向けの部分では生活環境の改善が主となり、そこで行われる活動は一般的な美術の枠を超えてきている。北川フラム氏が館長となった今、ベネッセ直島ミュージアムは新たな段階に入っている。
秋元さんの話に引き続き、藤浩志さんが、日中、行われたワークショップの話と併せて、自らの制作姿勢について語った。アーティストだけあって、彼の言葉からは、聞く人の想像力を喚起させる表現が次々と飛び出してくる。そこで彼の話を、私なりの解釈を交えながら反芻してみたい。
藤さんはまず、このような話し合では「と」が大事だと語った。「私とあなた」の「と」である。これは、いわゆる言葉の二人称性ということであろう。一般に、抽象的な話をするときには三人称言葉の方が便利である。日本の将来をどうするかとかいったことは、私とあなたの間だけでは決めることができない。「2人のため、世界はあるの~」とは言うが、それは一時の倒錯した世界観だ。
それに対して、目の前で起こっている問題を考えるときはやはり二人称の方が有効である。意見を真っ正面から突き合わせることができる。居酒屋でビールにするか焼酎にするか決 めるのに、周りのお客さんの気持ちを推察してもしかたがない。
このワークショップも、今、まさに北本で何が始められるのか考えようとしているわけである。そのためには、市民全体のためとか、街の将来のためといったように大風呂敷を広げたとたん、たちまち袋小路に突き当たってしまう。北本市民が考えるアートは千差万別だし、街の将来などといったら雲をつかむような話だ。見えない人のためのアートなどというものは、この世に存在しないのだ。
さらに言えば、ここに集まった人たちだってアートの好みは皆違う。じゃあそれぞれ勝手にやればよいかというと、それでは永遠に社会性が持てない。そこでとりあえず、あなた「と」私で何ができるのかを考えようというわけである。そこを出発点として、初めて、二人称から三人称へと広がっていく可能性が探れるということなのだろう。
藤さんは、これまで自分が行ってきたいくつかのプロジェクトについて紹介してくれた。そのひとつに「かえっこプロジェクト」というのがあった。これは、子どもたちにいらなくなったおもちゃを持ってきてもらい、それに「カエルポイント」(価格)をつけて展示する。そして、展示されたものの中から自分がほしいものを、カエルポイントで買うことができるという決まりである。飽きてしまったおもちゃは始末に困るし、交換と流通の仕組みもなかなか子どもには教えにくい。これらはいずれも、社会では扱いにくい問題として置き去りにされている。ところが藤さんは、その2つを結び付けることで、アートによってそれぞれの問題点をみごとに解決したのである。 藤さんが作品を作るときの出発点となるのは、ふだんの生活の中で感じるズレや違和感だそうだ。それを彼は「もやもや」と呼んでいる。そして、その溝を埋めたり覆い包んでいけるものを考え出すのだ。そこで浮かんできたイメージに形を与えるうち、少しずつ作品が完成してくるわけである。
「もやもや」を解決するために、世間の常識は役に立たない。だからといって非常識はだめだ。新たなイメージを導き出すことのできる唯一の道具を、藤さんは「超常識」と呼んでいる。
この「超」という語には、ひとつの枠の中に収まっているのではなく、かといってその外側にあるのでもないという印象がある。要するに、異なる2つのものを超越して包括(止揚)するような、1段階上の思考を目指しているのだろう。だからこそそれを見つけ出すには、提案と実験(帰納と演繹)の繰り返しが必要となるのだ。完成されたアートはすでに常識の範疇にある。藤さんが、完成された芸術品のことを単数形で「アート」と呼び、何かを生み出すための営みのことを複数形で「アーツ」と呼び分けているのも、そこに理由がある。
藤さんは「ヴィジョン」という言葉を好まない。すべてのものは、目的のないところから発生するという主張があるからだ。目的は生まれてくる。だから私たちは、その生まれつつある状態を大切にしなければならない。行政がヴィジョンを語るときによく使う、使役動詞的な「活性化」という言葉を、彼は能動的に「豊醸化」と言い代えた。
藤さんの発言の中で私が特に関心を持ったのは、藤流経済学の話であった。聴講者の一人から「アートはなぜお金がかかるのか」という質問が出た。それに対してまず司会の森さんから、お金をかけないやり方もあるが、アーティストが生活をしていることも忘れないでほしいという発言があった。
それを受けて藤さんからは、生活のことは考えなくてくれなくてよいと勇ましい答えが返ってきた。彼いわく、アーティストは、何となれば人から物をもらって食べることもできる。事実、自分は、福岡の片田舎に住んで、近所の人から野菜などの施しを受けてしのいでいる。それよりもアーティストは、与えられた予算の中でどこまでやれるのか、それをもっと真剣に考えてもらいたい。今日のアーティストの多くは、よりよい作品を作るためしばしば自腹を切って制作してしまう。藤さんはこうしたやり方に非常に批判的なのだ。
実際に美術家たちは、これまで、作品を発表するとき自ら経費を負担するのが常だった。貸し画廊はそのよい例である。もちろん貸し画廊には、それを隆盛に導いた社会的な要因があったわけだが、現在、その必然性が徐々に薄まってきている。美術家は自然発生的に生まれるのではなく、やはり社会に承認されることで存在しているのだ。
戦後、多くの美術家たちは、教員などを行う傍ら、作品の制作と発表を行ってきた。生業から得た収入を美術活動に転用することで、美術家としての地位を築いてきたのだ。だからそこでは、作品の発表とそれに対する対価の支払いという交換関係が成り立っていなかった。 ところが戦後日本の復興を支えた経済成長期が終焉し、1990年以降になると、大学卒業したての若いアーティストたちには条件のよい仕事がなくなっていった。今のようすでは、かつての好景気が再来する可能性も極めて薄い。これからは、アーティストも一般的な経済原則に則り、与えられた予算の中で何ができるのかを考えざるを得なくなっているのかもしれない。
懇親会の後、私は、アーティストもそろそろ「かえっこプロジェクト」に参加する時期かなあどと考えながら、真っ暗な北本の夜道をわが家へと向かった。
[2008/8/28 松永記]