[レビュー]
■かえってきたCON展
11月22日、松伏町で行われているCON展に行った。夕方、行われるアートツアーと、その後のシンポジウムに参加するのが目的だった。
この展覧会は以前にも見に来たことがあった。田んぼ道を延々と走ってゆくと、かなたにポッカリと島のように浮かんだ街が見えてくる。ところが一歩街路に入るとそこは完璧な新興住宅地で、周囲が田んぼであることなどすっかり忘れてしまう。あたかもそれはヨーロッパ南部にある要塞都市のようだ。埼玉の東端に位置するこの町は、平野部では数少ない鉄道の通っていない地域なのだ。
CON展は1995年から開始された。中心メンバーのひとりである高橋理加さんがまとめてくれた「CON展の沿革」によると、その数年前から、大石雅子さんと雨宮正幸さんという人が自宅アトリエの一部をギャラリーとして公開したのがきっかけだったという。彼らは、作品の発表場所があまりにも都内に偏り過ぎていることに疑問を持ち、このような活動を始めたらしい。そして、それに共感した飯島昌さんが、大石さんとともに町内在住の美術家たちに声をかけて発足したのがこのCON展だった。
1990年前後にバブル経済が破綻し、国民総出で推進してきた大きな夢が消え失せた。それを受けて行政は、地元に目を向けさせる政策を各地で行うようになった。人々もまた、将来的な発展よりも今の豊かさを保持するため、身近な楽しみを追求するようになっていた。そしてそれを実現できるのは、中央ではなく、やはり日々の生活を営む日常の場であった。
美術の世界も状況は同じだった。すでに全国に県立美術館が出揃い、どこの地方都市でもいわゆる泰西名画が見られるようになっていた。しかし、すでに自治体は、新たにそのような作品を買う余力はない。そこで、その次のステップとして注目され始めたのが、アーティスト・イン・レジデンスという方法だった。
アーティスト・イン・レジデンスとは、芸術家に住居と制作場所を提供し、地域の人々と交流を行うことのできる施設である。美術館は、美術作品と出会いその価値を知る場所だ。それに対してアーティスト・イン・レジデンスは、美術家自身に触れて、彼らの活動の意義を知ることが目的であった。そこには、物から人へという大きな価値の転換があった。
その先駆けとなったのが、「多摩ライフ21」事業の一環として1993年に東京都が実施したアーティスト・イン・レジデンスである。これは都と、立川や八王子といった多摩地区の市町村とがタイアップすることで実現した。またそれを追うように、茨城県のアーカス・プロジェクト(1995年~)や埼玉県の彩の国さいたまアーチスト・イン・レジデンス事業(1996年~)が首都圏で始められた。
ところが、これらの中で今も堅実な活動を行っているのは、アーカス・プロジェクトのみとなった。多摩ライフ21の方は、都が1年で手を引き市町村に後始末を押しつけたため、ひとつまたひとつと姿を消し、今では五日市(現在はあきる野市)が貸し施設として細々と残るのみだし、埼玉県は埼玉県で、行政的な配慮から年ごとに実施市町村を変えたため、結局この事業が根づくことはなかった。
一方で経済界では、1991年に企業メセナ協議会が発足し、企業もまた新たな文化創生に貢献しようという気運が高まっていた。バブル期に、企業は多額の余剰金をつぎ込んで泰西名画の買い占めに奔走した。そうした動きに対して企業メセナ協議会は、余剰金の有効利用に関して企業の規範を示したのである。折しも文化庁がアーティスト・イン・レジデンスに対する補助金制度を新設し、この名を借りた事業が各地で多発するようになった時期だった。
行政や企業のこうした働きかけに対応して、美術を街興しの一環として利用できるのではないかという期待が各地で高まった。当時、首都圏では、野外の表現展(1991年~、埼玉)、フィールドワークイン藤野(1993~98年、神奈川)、雨引の里と彫刻(1996年~茨城)、我孫子国際野外美術展(1998年~、千葉)等が相次いで開始されている。これらは、主に東京都内で発表活動を行っていた美術家たちが、自分たちが住みまた活動している場所で作品の制作と発表を行うという点で、いずれも共通していた。
実はそれに先駆け1980年代にも、夏休みなどの一定期間、海浜や山間地域などで郊外型の美術展が頻繁に行われていたのだが、そこに参加していた美術家たちは、住民との接触というより画廊以外の場所で表現の実験を行うことが目的だった。その意味で、こうした地域密着型の展覧会は、1990年代のひとつの特色であったと言える。
松伏町でCON展がスタートしたのは、まさにこのような時期であった。当初は一般的な美術展の形式をとっていたが、町の社会福祉協議会とタイアップし、会期中、独り暮らしの老人の会食会に会場を提供したり、チャリティーのための作品頒布会を開くなど、地元と接触を持つための工夫がすでに見られる。
第2回展からは、やはり地元住民による朗読や音楽演奏が関連イベントとして取り入れられた。5回展では、町内の民話収集グループによる朗読会が行われ、それに合わせて民話を題材とした作品を出品者が制作した。またこの年には、一般参加者とともに作品を制作するワークショップも実施している。
さらに第7回展ではパーティ料理にも工夫を凝らし、日常生活との接点を一層広め、8回展が行われた2003年には、出品者は年間を通してリレー式でワークショップを行った。10回展のときは、音響のよさで知られる館内のコンサートホールを使い、古楽器による大がかりな演奏会が並催された。
第11回展ではついに、巨大に膨れ上がったこの催しを象徴するかのように、「フリカッセ=ごった煮の意味を考える」という副題が付けられた。こうなってくると、参加者でさえ事業の全体像を把握しきれなくなっていたのではないか。そして12回展となる今回、この事業は改めて初心に戻り、他の関連イベントをすべて切り離すことでもういちど純粋な美術展の開催となったわけである。
ここには、ひとつの運動体が芽生え、それが拡張してまた収束するまでのひとつのサイクルが見られる。まず初めに、同じ目的を持った集団がひとつの事業を立ち上げる。そして、異なる目的を持ったグループとの併合を繰り返しながら規模を拡大させてゆく。ときには、別な集団に属する個人どうしが協同して新たな運動を派生させることもある。
しかし一方で、規模が拡大するにつれて、催しの全体像が見えにくくなり、運動体の目的自体があいまいになってくる。参加者をつなぐ球心力も弱くなり、一方で気の合う者どうしの小さなグループが生まれ始める。そこで浮遊化した小集団は、その内部で再び目的を醸成させながら、それぞれが新たな運動体として活動を開始するのである。
CON展では、美術の他に音楽、民話、料理といった異なる表現分野が混在していった。それらの連携の過程で、領域ごとに催し物の展開のさせ方に違いが現れたのではないか。たとえば音楽などの舞台芸術系では、催し物を大きくするときは観客を増やすのがふつうだ。舞台には必ず客席があるので、それは当然なのだろう。
ところが美術の世界では、事業拡大のためには、観客ではなく展覧会の出品者を増やすという方法が採られてきた。そのため展覧会を見に来る人も、自分で作品を作っていることが多い。また、あえて作家以外の人を集めるときは、ワークショップなどで平易な実技指導を行うことになる。そうするとますます、作品を作らない人は美術の世界に入りにくくなる。こうした悪循環が背景にあり、今日、日本の美術界は美術家だけで固められ、極めて強い閉塞感を持つようになったと思われる。
この閉塞状況を打ち破るため、近年では、学習指導要領の中で鑑賞教育の時間を増やすなど、新たな取り組みが行われるようになった。それはそれで重要ではあるが、すぐに効果が現れるというものでもない。それよりもっと手っ取り早いのは、まさにCON展が行ってきたように、領域の異なる活動を行っているグループが互いに接点を持ち連帯することで、催しの規模を膨らませていくというやり方のように思われる。そのことでメンバーも閉塞感に陥ることなく、また異なる分野からの示唆を受けながら、これまでと違う催し物のあり方が学べるのではないだろうか。
ところで、ここでの基調報告に備えて松伏町のことを調べているうち、興味深いことに気づいた。人口統計を見てもどこといって特徴のない町なのだが、なぜか離婚率だけが異常に高いのである。正確には相対離婚率(1年間に結婚した人と離婚した人の数の割合)というが、全国平均が36%、県内平均が33%ほどであるのに対し、平成18年度の同市の離婚率は75%にも登る。結婚した人4人に対し3人が離婚している計算だ。
余談でこのことを話題に出したところ、会場から、うちの近所でも最近4件離婚したとか、高橋さんのお宅はご主人の帰りが遅いようだがだいじょうぶだろうかとか、ここの住宅街は「ゆめみの団地」というのだが、実はマイホームが2人の夢でしかなかったことを知る場所なのだとか、さまざまな意見が相次いだ。離婚については、それだけ多くの人が潜在的に意識していたということだろう。
離婚率の差を見てみると、相対的に辺鄙な地域の方が高い。しかし松伏の場合は少しようすが違いそうだ。離婚の原因はさまざまあるが、一方でそれを決意させる要因として、女性が自立しやすい環境がある。その点でこの町は、個々人が自立しやすい施設や制度が整っていると言えるのかもしれない。
これからの美術活動は、制作する側も見る側も、共に個として自立していることが望まれる。自分の責任で表現する人と自分の責任で評価できる人が出会ったとき、そこに新たな展開の可能性が生まれるのだ。その意味で松伏の離婚率の高さは、決してネガティブな見方だけではなく、むしろ美術の素養を持った人材の多さとして捉えるべきではないか。
いずれにしても、CON展は再び新たな起点に降り立ったところだ。これからどうなっていくのかまったく未知である。しかしその立ち位置は、最初の出発点とは明らかに異なっている。ここに至る道のりの中で多くの経験を積んだ分、より高い位置から周囲の状況を見渡しているはずである。人生もまた、決して同じところを行き来しているのではなく、少しずつ上昇しながら螺旋状に巡っているのだから。
■かえってきたCON展
11月22日、松伏町で行われているCON展に行った。夕方、行われるアートツアーと、その後のシンポジウムに参加するのが目的だった。
この展覧会は以前にも見に来たことがあった。田んぼ道を延々と走ってゆくと、かなたにポッカリと島のように浮かんだ街が見えてくる。ところが一歩街路に入るとそこは完璧な新興住宅地で、周囲が田んぼであることなどすっかり忘れてしまう。あたかもそれはヨーロッパ南部にある要塞都市のようだ。埼玉の東端に位置するこの町は、平野部では数少ない鉄道の通っていない地域なのだ。
CON展は1995年から開始された。中心メンバーのひとりである高橋理加さんがまとめてくれた「CON展の沿革」によると、その数年前から、大石雅子さんと雨宮正幸さんという人が自宅アトリエの一部をギャラリーとして公開したのがきっかけだったという。彼らは、作品の発表場所があまりにも都内に偏り過ぎていることに疑問を持ち、このような活動を始めたらしい。そして、それに共感した飯島昌さんが、大石さんとともに町内在住の美術家たちに声をかけて発足したのがこのCON展だった。
1990年前後にバブル経済が破綻し、国民総出で推進してきた大きな夢が消え失せた。それを受けて行政は、地元に目を向けさせる政策を各地で行うようになった。人々もまた、将来的な発展よりも今の豊かさを保持するため、身近な楽しみを追求するようになっていた。そしてそれを実現できるのは、中央ではなく、やはり日々の生活を営む日常の場であった。
美術の世界も状況は同じだった。すでに全国に県立美術館が出揃い、どこの地方都市でもいわゆる泰西名画が見られるようになっていた。しかし、すでに自治体は、新たにそのような作品を買う余力はない。そこで、その次のステップとして注目され始めたのが、アーティスト・イン・レジデンスという方法だった。
アーティスト・イン・レジデンスとは、芸術家に住居と制作場所を提供し、地域の人々と交流を行うことのできる施設である。美術館は、美術作品と出会いその価値を知る場所だ。それに対してアーティスト・イン・レジデンスは、美術家自身に触れて、彼らの活動の意義を知ることが目的であった。そこには、物から人へという大きな価値の転換があった。
その先駆けとなったのが、「多摩ライフ21」事業の一環として1993年に東京都が実施したアーティスト・イン・レジデンスである。これは都と、立川や八王子といった多摩地区の市町村とがタイアップすることで実現した。またそれを追うように、茨城県のアーカス・プロジェクト(1995年~)や埼玉県の彩の国さいたまアーチスト・イン・レジデンス事業(1996年~)が首都圏で始められた。
ところが、これらの中で今も堅実な活動を行っているのは、アーカス・プロジェクトのみとなった。多摩ライフ21の方は、都が1年で手を引き市町村に後始末を押しつけたため、ひとつまたひとつと姿を消し、今では五日市(現在はあきる野市)が貸し施設として細々と残るのみだし、埼玉県は埼玉県で、行政的な配慮から年ごとに実施市町村を変えたため、結局この事業が根づくことはなかった。
一方で経済界では、1991年に企業メセナ協議会が発足し、企業もまた新たな文化創生に貢献しようという気運が高まっていた。バブル期に、企業は多額の余剰金をつぎ込んで泰西名画の買い占めに奔走した。そうした動きに対して企業メセナ協議会は、余剰金の有効利用に関して企業の規範を示したのである。折しも文化庁がアーティスト・イン・レジデンスに対する補助金制度を新設し、この名を借りた事業が各地で多発するようになった時期だった。
行政や企業のこうした働きかけに対応して、美術を街興しの一環として利用できるのではないかという期待が各地で高まった。当時、首都圏では、野外の表現展(1991年~、埼玉)、フィールドワークイン藤野(1993~98年、神奈川)、雨引の里と彫刻(1996年~茨城)、我孫子国際野外美術展(1998年~、千葉)等が相次いで開始されている。これらは、主に東京都内で発表活動を行っていた美術家たちが、自分たちが住みまた活動している場所で作品の制作と発表を行うという点で、いずれも共通していた。
実はそれに先駆け1980年代にも、夏休みなどの一定期間、海浜や山間地域などで郊外型の美術展が頻繁に行われていたのだが、そこに参加していた美術家たちは、住民との接触というより画廊以外の場所で表現の実験を行うことが目的だった。その意味で、こうした地域密着型の展覧会は、1990年代のひとつの特色であったと言える。
松伏町でCON展がスタートしたのは、まさにこのような時期であった。当初は一般的な美術展の形式をとっていたが、町の社会福祉協議会とタイアップし、会期中、独り暮らしの老人の会食会に会場を提供したり、チャリティーのための作品頒布会を開くなど、地元と接触を持つための工夫がすでに見られる。
第2回展からは、やはり地元住民による朗読や音楽演奏が関連イベントとして取り入れられた。5回展では、町内の民話収集グループによる朗読会が行われ、それに合わせて民話を題材とした作品を出品者が制作した。またこの年には、一般参加者とともに作品を制作するワークショップも実施している。
さらに第7回展ではパーティ料理にも工夫を凝らし、日常生活との接点を一層広め、8回展が行われた2003年には、出品者は年間を通してリレー式でワークショップを行った。10回展のときは、音響のよさで知られる館内のコンサートホールを使い、古楽器による大がかりな演奏会が並催された。
第11回展ではついに、巨大に膨れ上がったこの催しを象徴するかのように、「フリカッセ=ごった煮の意味を考える」という副題が付けられた。こうなってくると、参加者でさえ事業の全体像を把握しきれなくなっていたのではないか。そして12回展となる今回、この事業は改めて初心に戻り、他の関連イベントをすべて切り離すことでもういちど純粋な美術展の開催となったわけである。
ここには、ひとつの運動体が芽生え、それが拡張してまた収束するまでのひとつのサイクルが見られる。まず初めに、同じ目的を持った集団がひとつの事業を立ち上げる。そして、異なる目的を持ったグループとの併合を繰り返しながら規模を拡大させてゆく。ときには、別な集団に属する個人どうしが協同して新たな運動を派生させることもある。
しかし一方で、規模が拡大するにつれて、催しの全体像が見えにくくなり、運動体の目的自体があいまいになってくる。参加者をつなぐ球心力も弱くなり、一方で気の合う者どうしの小さなグループが生まれ始める。そこで浮遊化した小集団は、その内部で再び目的を醸成させながら、それぞれが新たな運動体として活動を開始するのである。
CON展では、美術の他に音楽、民話、料理といった異なる表現分野が混在していった。それらの連携の過程で、領域ごとに催し物の展開のさせ方に違いが現れたのではないか。たとえば音楽などの舞台芸術系では、催し物を大きくするときは観客を増やすのがふつうだ。舞台には必ず客席があるので、それは当然なのだろう。
ところが美術の世界では、事業拡大のためには、観客ではなく展覧会の出品者を増やすという方法が採られてきた。そのため展覧会を見に来る人も、自分で作品を作っていることが多い。また、あえて作家以外の人を集めるときは、ワークショップなどで平易な実技指導を行うことになる。そうするとますます、作品を作らない人は美術の世界に入りにくくなる。こうした悪循環が背景にあり、今日、日本の美術界は美術家だけで固められ、極めて強い閉塞感を持つようになったと思われる。
この閉塞状況を打ち破るため、近年では、学習指導要領の中で鑑賞教育の時間を増やすなど、新たな取り組みが行われるようになった。それはそれで重要ではあるが、すぐに効果が現れるというものでもない。それよりもっと手っ取り早いのは、まさにCON展が行ってきたように、領域の異なる活動を行っているグループが互いに接点を持ち連帯することで、催しの規模を膨らませていくというやり方のように思われる。そのことでメンバーも閉塞感に陥ることなく、また異なる分野からの示唆を受けながら、これまでと違う催し物のあり方が学べるのではないだろうか。
ところで、ここでの基調報告に備えて松伏町のことを調べているうち、興味深いことに気づいた。人口統計を見てもどこといって特徴のない町なのだが、なぜか離婚率だけが異常に高いのである。正確には相対離婚率(1年間に結婚した人と離婚した人の数の割合)というが、全国平均が36%、県内平均が33%ほどであるのに対し、平成18年度の同市の離婚率は75%にも登る。結婚した人4人に対し3人が離婚している計算だ。
余談でこのことを話題に出したところ、会場から、うちの近所でも最近4件離婚したとか、高橋さんのお宅はご主人の帰りが遅いようだがだいじょうぶだろうかとか、ここの住宅街は「ゆめみの団地」というのだが、実はマイホームが2人の夢でしかなかったことを知る場所なのだとか、さまざまな意見が相次いだ。離婚については、それだけ多くの人が潜在的に意識していたということだろう。
離婚率の差を見てみると、相対的に辺鄙な地域の方が高い。しかし松伏の場合は少しようすが違いそうだ。離婚の原因はさまざまあるが、一方でそれを決意させる要因として、女性が自立しやすい環境がある。その点でこの町は、個々人が自立しやすい施設や制度が整っていると言えるのかもしれない。
これからの美術活動は、制作する側も見る側も、共に個として自立していることが望まれる。自分の責任で表現する人と自分の責任で評価できる人が出会ったとき、そこに新たな展開の可能性が生まれるのだ。その意味で松伏の離婚率の高さは、決してネガティブな見方だけではなく、むしろ美術の素養を持った人材の多さとして捉えるべきではないか。
いずれにしても、CON展は再び新たな起点に降り立ったところだ。これからどうなっていくのかまったく未知である。しかしその立ち位置は、最初の出発点とは明らかに異なっている。ここに至る道のりの中で多くの経験を積んだ分、より高い位置から周囲の状況を見渡しているはずである。人生もまた、決して同じところを行き来しているのではなく、少しずつ上昇しながら螺旋状に巡っているのだから。
[2008/12/15 松永記]