[レビュー]
■西川口プロジェクトと街アートの今後
12月5日、「西川口プロジェクト」を見に行った。この催しは、西川口駅周辺の商店街を使って行われた美術展である。川口には多くのアジア系外国人が居住している。そこで、「地域に在住するアジア人にたいする新たな考え」を提案し、「アジア人との交流」や「アジア人について考える、知る」ための契機にしたい。チラシにはこのような趣旨が書かれていた。
この催しを企画したのは、川口でmasuii.R.D.Rという画廊を運営している増井真理子さんだ。この事業を始めるきっかけになったのは、2005年と2007年にこの画廊で「アート記念日」という展覧会を行ったことだと言う。これは、ワークショップと並行させて展示を展開させたり、国を超えて相互に展覧会を行うといった、かなり実験的なプロジェクトだった。外の世界とつながりながら画廊の展示が成長していくというダイナミズムに、増井さんは強く心を引かれたらしい。そして、川口の地域性へと向き始めた増井さんの視界に浮かび上がってきたのが、そこに住む外国人たちとの間の目に見えない境界線だった。
そうした関心が、今回の「西川口プロジェクト」へとつながっていくこととなる。川口の地域性とそこに住む外国の人たちの暮らしを、この催しの2つの中心テーマとした。そして、その展開の場所として、外国人が最も多く住む西川口駅周辺に焦点を当てた。
川口市と、西川口駅に隣接する蕨市の人口は併せて56万人で、そのうち外国人登録者数は21,000人(平成19年末時点)、人口比は約3.8%となる。全国レベルで言うと、静岡県の浜松市が人口80万に対し33,000人(4.1%)の外国人を擁する日本最大の外国人居住都市である。こう見ると、川口と蕨は、浜松市に迫る外国人集住地であることがわかる。
さて、その西川口駅の東口駅前通りには「合格通り商店街」がある。近くに有名な学校もなさそうなので増井さんにその名の由来を聞くと、「おめでたい言葉だからでしょう」と極めて簡潔な答え。ところが、その浮き足だったネーミングとは裏腹に、実際に歩いてみると地に足の着いた趣のある店が多い。
増井さんたちは、まずこの合格通り商店街の商工会の協力を得て会場探しを始めた。自ら会場の提供を申し出てくれた理事さんもいるし、出品者が展示を希望して了解してくれた店もあった。どの店主も「美術のことはよくわからないが、理事さんたちがやるというなら」といった感じで快く了承してくれた。
まず西川口駅の西口の、かつて風俗店だった大槻ビルの空き室に入ると、そこには丸山芳子さんの、写真を基にしたたくさんの人物像が並んでいる。東口に移り、丸和不動産ビルの外壁には、あらかわあつこさんの垂幕の作品。同じビルの2階に上がると、応接間を使った陳維錚(タン・ジュイチェン)さんの作品があった。 合格通り商店街へと進むと、吉村屋寝具店のウィンドウに崔誠圭(チェ・ソンギュ)さんが、大東亜戦争を正当化した岩間弘氏の著作を引用している。紳士服のコナカの試着室には、既製品を使った金侑龍(キム・ユリョン)さんの作品。もみじという韓国料理店には、ワークショップで作られたヒサヨシさんの万華鏡。三美堂雑貨店には山田純平さんのテレビモニター。ライブハウスハーツの田中大介さんの作品は、インターネットを使って展開していくものだ。
この日はあいにく雨空で傘をさして回らなければならなかったが、それほど苦には感じなかった。散策がてら見て歩くのにちょうどよい作品数と距離である。
展示を見終え、私はmasuii R.D.Rで行われるトーク・イベントへと向かった。そこでは出品者である丸山芳子さんや陳維錚さんのトークと合わせて、NPO法人「コミュニティアートふなばし」を主宰している下山浩一さんが、「誰にでもわかるコミュニティーアート」というテーマで話をした。下山さんは、1997年頃から船橋で街を活性化させるための活動を続けている、コミュニティ・アートの草分け的存在である。
中で、住民といっしょに活動していると、若いボランティアたちが地元のおじいさん、おばあさんによく呼び止められるという話があり、私はそこに耳が止まった。彼らは、かつてその街で起きたことや買い物する場所、大工道具の使い方といったことまで、自分の知っていることをとにかく人に伝えたがっているそうなのだ。そしてそれを聞いてあげられるのは、まだ社会の中で確たる位置を得ていない若者たちなのである。
そういえば以前、「越後・妻有トリエンナーレ」でボランティアとして活動している女性から同じような話を聞いたことがある。「越後・妻有トリエンナーレ」とは、新潟県が主催し、過疎化の進む山間地域で3年に1度ずつ行われている大がかりな美術イベントだ。その女性は第一回展のときからこの事業に参加し、以降、毎回、同地に滞在するようになった。
新潟の寒村に住んでいるのは、すでにみな高齢者ばかりだ。そこに大学生ぐらいの若者が派遣されてくる。若者たちが体験する日々の暮らしは、何もかもが新鮮なことばかりだ。その純粋な興味に触れ、住民たちも少しずつ自分たちのことを語りだす。まだ都市社会にすれていない若者には、文化差という障壁がないのだ。
住民たちはいつしか、近代化の中で省みられることのなくなったその生活に、ある種の誇りを取り戻し始める。トリエンナーレという時間差が、双方にまた適度な思慕の情を募らせるらしい。こうして若者たちは、その地域にとってかけがえのない新鮮な空気となっていく。
首都圏では、シャッター通りとなった商店街を活性化させるための取り組みがよく紹介されるが、そのとき経済効果の議論だけに始終しがちだ。しかし、真の意味で住民に元気を与えるのは、他者に認めらるという一人一人のプライドなのである。そしてそれを高めるのは、話を聞いてくれる人とのコミュニケーションの力に他ならない。美術にはさまざまな利用価値があるが、コミュニティ・アートは人から人への伝達力という部分を最大限に利用しているのだと思う。
下山さんは、コミュニティアートふなばしの紹介文で、コミュニティ・アートについて次のように書いている。
『演劇・ダンス・美術・映像等の作品の共同制作を通じて、地域コミュニティ内の構成メンバーの親睦をはかるものから、コミュニティにおける課題の共有化や解決を狙う社会性の高いものまで、さまざまな試みが行われてきました。
このバラエティに富むコミュニティアートと呼ばれるプログラムに共通して見られる特徴として、「アーティストと市民の共同作業によるプロジェクトであること」「参加者の作品に対する積極的なコミットを奨励しプロセスを重視すること」「参加者の違いを認め尊重した上での創作活動であること」が挙げられます。』
ここでは「作品」と「アーティスト」、「共同制作(作業)」、「コミュニティ」という言葉の関係が述べられている。前段では、「作品」という動機づけから「共同制作」というプロセスを経て、最終的に「コミュニティ」の再生へと至る手順が示される。また後半では、「アーティスト」が主導するのではなく、市民と対等な「共同作業」の必要性が強調される。要するにそこでは、アーティストと住民が直接影響を及ぼし合いながら、その活動が有機的に進展していくことを企図しているのである。
トークの中で下山さんは、コミュニティ・アートは、コミュニティづくりが目的ではあるが、より実りあるものとするために優れた活動を行っているアーティストを選ぶことが重要だと語った。アーティストと参加者は平等だと言うものの、そこにはやはり魅力あるアーティストの存在が前提となっている。どんなにリベラルな社会になったとしても、人々を牽引するのは、やはり秀でた能力を持つ人間でなければならないということなのだろう。そうしたことから察するに、アートを手段と捉えているようなこの趣旨文も、本当のところ事業をよりスムーズに運ぶための常套句であることがうかがえる。
ところで私の理解では、コミュニティ・アートの基盤となる考え方はヨゼフ・ボイスの「社会彫刻」にあると見ている。ボイスは1972年ごろから、社会を一つの芸術的な総体と捉え、そこに精神的な深みを与える鍵は芸術家が握っていると考えるようになった。芸術家が作るべきは物体としての作品ではなく、人と人の結びつきそのものなのだ。それを実現させるために世界自由大学を創設し、また政党としての「緑の党」を推進することにもなる。おそらくそうした考えから影響を受けて、イギリスでのコミュニティ・アートも始動したのではないか。
一方、日本国内でコミュニティ・アートを標榜した動きが社会化するのは、1996年に始まる「トヨタ・アートマネジメント講座」だったように思う。1990年代に入ると、アメリカやイギリスでアート・マネジメントの理論を学んだ研究者が次々と帰国する。その手法と考え方を広めるため、この講座は毎年、開催地を変えながら日本全国で行われた。
同事業の報告書には、「アートを通して地域社会を活性化する『地域のアートマネージャー』を各地で育成し、行政・文化機関・地域など、さまざまなレベルで地元密着型のアートマネジメントが盛んになることを目的に、活動を推進」したと記されている。「アートを通して地域社会を活性化する」ことは、言うまでもなくコミュニティ・アートの本分である。
さらに2002年には「アサヒ・アート・フェスティバル」が始動する。そこでは「アートと社会をつなぎ、両者の関係を再構築」することを目的としたアート、すなわちコミュニティ・アートがその助成の対象となった。あたかも事前に計画されていたかのような企業どうしの見事な連携により、コミュニティ・アートは全国規模で数多くの実践を促すこととなる。そしてアーティストの側からも、藤浩志さんのようなコミュニティ・アートの専門家が登場する。
ところが最近、広報資料を見ていても、誰がアーティストとして参加しているのかよくわからない催しをしばしば目にするようになった。固有性を持ったアーティストはすでに不要となり、むしろ集団的な営みの中から自然発生的に生まれてくる人々のつながりを「アート」と呼んでいるようにさえ思える。そこでは、下山さんの定義を地でゆく、純粋なコミュニティ・アートが生まれ始めているのかもしれない。
たとえば埼玉では、2006年から文教大学の学生たちが越谷市内を使い「まちアートプロジェクト」を展開させている。ここでは、学生たちがアーティストの代わりとなってものづくりを行いながら、住民との交流を進めている。前述のように、若者は文化的な刷り込みが少ない分、どんな地域にも抵抗なく溶け込んでゆけるため、コミュニティづくりのためには、へたにアーティストを使うよりよほど即効性があるようだ。
また加須市では、昨年、小学校の児童が自分たちの作品を町内の民家に掲示する「まちかど美術館」という催しが行われ、住民から期待と賛同が寄せられた。子どもが中心とは言っても、当然そこには大人たちの全面的なサポートがある。そこで必然的にコミュニティづくりが促されるのである。「子はかすがい」と言うが、子どもは地域を結ぶための強力な動機づけともなる。
ここには、アイデンティティの確立を求めてきた近代以降の美術の文脈に収まらない、まったく新たな「アート」の姿が見える。アーティストがいたとしてもそれはひとつの役割であり、参加者との間に優劣の差はない。言い方を換えれば、すべての人はアーティストなのだ。これもまた自然適応の結果であり、ポストモダンに向けた美術の進化の一形態という捉え方もできるだろう。そしてそれこそが、ボイスの提唱した「社会彫刻」の完成形なのかもしれない。
では、アーティストは今後、コミュニティの中でその存在意義を失っていくのか。いや、決してそんなことはない。いくつかの地域で、アーティストの固有性を武器に、地域住民と役割を分け合いながら活動を展開させようとする動きも確実に見られるからだ。
たとえば、以前このブログでも紹介したが、川越市では街興し事業と並行しながら、街並みを利用した現代美術展がときどき行われている。そこでは美術家固有の感性により、展示場所に潜む歴史を象徴的に視覚化していく。そしてその地で暮らす人々は、作品からの示唆を受けながら地域性を活かすための方法を考えるのだ。ここにはコミュニティづくりに向けた、美術家と住民との自律的な役割分担が見られる。
このように、アーティストの感性によって生活空間の意味を変換させる現代美術プロジェクトとしては、1986年にベルギーのゲントでヤン・フートが企画した「シャンブル・ダミ」展が知られる。日本では、東京のギャルリー・ワタリがヤン・フートを招聘し、1991年と94年に石川県鶴来市で、街中の古い建物を利用した「ヤン・フートIN鶴来」を開いた。それはその後、市民に引き継がれ「アートフェスティバルIN 鶴来」として何度か続けられた。
またそれとほぼ並行し、1990年から九州の福岡市で、山野慎吾さんたちが中心となり「ミュージアムシティ天神」が開催された。三菱地所アルティアムを中心に、美術大学の学生から活躍中の美術家までが市内のあらゆる場所で作品の展示活動を繰り広げた。彼らは当初このやり方を、野外展などと同様にパブリック・アートの一環として捉えていたようだ。博多での成功以来、この方式は全国に飛び火し、今日では「ストリート・ミュージアム」という名で定着している。
このストリート・ミュージアム方式は、福岡に先駆ける1989年、長野県上田市で行われた「アートコンタクト」という催しですでに実践されていた。これは、現在、美術教育で活躍する三澤一実さんが企画したものだ。当時、三澤さんはこうした展覧会のやり方を「脱美術館」という言葉で表していた。この言葉には、美術館に展示するような固有の美術作品を前提とし、その上でそれらを日常の場に引き出そうという意図が見られる。
日本のストリート・ミュージアム方式の歴史はさらに古く、実は江戸時代まで遡ることができる。四国は土佐の赤岡で、夏の夜、繪金の描いた屏風絵を軒先に並べ、通りを往く人に披露するという習慣があった。それが地元の商工会により1977年から興行化され、有名な「絵金祭り」となる。これはまさに今日のストリート・ミュージアムの原型と言えるものだ。
このように考えると西川口プロジェクトは、本質的にはコミュニティ・アートではなく、ストリート・ミュージアムに近いように思う。たとえば丸山芳子さんの展示は、見る者が無意識に抱いている予見を鋭く暴露させる。その作品に触れることで、私たちは改めて地域社会を見直すきっかけを与えられる。しかし作品は、人々のそうした意識の変化と関わりなく、常に自律して私たちの目と向き合い続けている。
また、もみじの万華鏡を作った参加者たちは、同じ場所と時間にヒサヨシさんと作業を行ってはいるが、そこで生み出され持ち帰ることができるのは個々の作品と記憶だけである。たとえそこで参加者どうしの交流が生まれたとしても、それがアーティストの活動に直接の影響を与えることはおそらくない。
ライブハウスハーツで展示していた田中大介さんの作品は、西川口についての疑問をインターネットのホームページで紹介し、それを読んだ人が質問に答えるというものだ。作者が媒介となり人と人とを結び付けていくという点で、コミュニケーションを通したアートではあるが、そこはあくまでネット空間というバーチャルな場であり、地域社会という現実空間とは明確に位相を分けている。
こうした表現方法はいずれも、コミュニティ・アートの要素である「共同制作」や「コミュニティ」とどこかで関わっている。しかし、「アーティストと住民が直接影響を及ぼし合いながら」展開しているとはいいがたい。作者と作品、そして作品と観客の間には一定の隔たりがあり、むしろそれらが暗示的に影響を及ぼし合うことを望んでいるように見える。そうだとすれば、それは近代以降の美術のあり方とあまり変わっていない。
明治以降、西欧から導入された近代美術は、まず知識階級を中心に意識の近代化を促してきた。戦後になると美術教育とも連帯して、個人主義的な思考方法を国民全体に行き渡らせるようになった。ところがその後の急激な経済発展に伴い、人々のアイデンティティ形成は生活様式の変化の速さに追いつかなくなってきた。最近になって集団主義や国家主義の再評価が行われるようになったのも、そのギャップを埋めるための一種の揺り戻しなのだろう。
少子化問題や高齢化問題といった難問が山積する中、コミュニティ・アートは、ひとつの対症療法として各界から財政的支援を受け、今後もしばらくは発展していくと思う。そこで活動するアーティストには、これまでのような過大な自己主張は認められない。それよりもアートは、人間関係を円滑化させる道具として、自分ではなく他者のために役立てられるべきである。自分本位を謳歌した戦後世代に対し、コミュニティ・アートを担う若い世代は、そうした批判意識さえ内在させているように見える。
一方で、では日本はどこまで近代化したのかという問題がある。交通においても産業においても、私たちの生活環境はたしかに見違えるほど整った。ところがその繁栄の裏には、集団いじめや残業代の未払い、希望格差や自殺の増加といった人災が止むことなく増加している。こうした制度的不具合の最大の要因は、結局のところ集団と自己の境界のあいまいさにあるのではないか。そしてそれを根深く引きずらせているのは、未成熟な日本人の自己意識にある。
おそらく美術もまた、集団と自己をいかに調停するかという課題と向き合い、新たな取り組みを開始しなければならない時期にきているのだろう。これまでのように、自分本位に生きられる時代でないことは明らかだ。しかし、だからといって、せっかくここまで積み上げてきた表現活動の個別性を無碍に捨ててしまってよいものだろうか。人は自己のみで生きられず、かといって自己を消すこともできない生き物なのだ。そしてそれは、人類永遠のテーマでもある。
■西川口プロジェクトと街アートの今後
12月5日、「西川口プロジェクト」を見に行った。この催しは、西川口駅周辺の商店街を使って行われた美術展である。川口には多くのアジア系外国人が居住している。そこで、「地域に在住するアジア人にたいする新たな考え」を提案し、「アジア人との交流」や「アジア人について考える、知る」ための契機にしたい。チラシにはこのような趣旨が書かれていた。
この催しを企画したのは、川口でmasuii.R.D.Rという画廊を運営している増井真理子さんだ。この事業を始めるきっかけになったのは、2005年と2007年にこの画廊で「アート記念日」という展覧会を行ったことだと言う。これは、ワークショップと並行させて展示を展開させたり、国を超えて相互に展覧会を行うといった、かなり実験的なプロジェクトだった。外の世界とつながりながら画廊の展示が成長していくというダイナミズムに、増井さんは強く心を引かれたらしい。そして、川口の地域性へと向き始めた増井さんの視界に浮かび上がってきたのが、そこに住む外国人たちとの間の目に見えない境界線だった。
そうした関心が、今回の「西川口プロジェクト」へとつながっていくこととなる。川口の地域性とそこに住む外国の人たちの暮らしを、この催しの2つの中心テーマとした。そして、その展開の場所として、外国人が最も多く住む西川口駅周辺に焦点を当てた。
川口市と、西川口駅に隣接する蕨市の人口は併せて56万人で、そのうち外国人登録者数は21,000人(平成19年末時点)、人口比は約3.8%となる。全国レベルで言うと、静岡県の浜松市が人口80万に対し33,000人(4.1%)の外国人を擁する日本最大の外国人居住都市である。こう見ると、川口と蕨は、浜松市に迫る外国人集住地であることがわかる。
さて、その西川口駅の東口駅前通りには「合格通り商店街」がある。近くに有名な学校もなさそうなので増井さんにその名の由来を聞くと、「おめでたい言葉だからでしょう」と極めて簡潔な答え。ところが、その浮き足だったネーミングとは裏腹に、実際に歩いてみると地に足の着いた趣のある店が多い。
増井さんたちは、まずこの合格通り商店街の商工会の協力を得て会場探しを始めた。自ら会場の提供を申し出てくれた理事さんもいるし、出品者が展示を希望して了解してくれた店もあった。どの店主も「美術のことはよくわからないが、理事さんたちがやるというなら」といった感じで快く了承してくれた。
まず西川口駅の西口の、かつて風俗店だった大槻ビルの空き室に入ると、そこには丸山芳子さんの、写真を基にしたたくさんの人物像が並んでいる。東口に移り、丸和不動産ビルの外壁には、あらかわあつこさんの垂幕の作品。同じビルの2階に上がると、応接間を使った陳維錚(タン・ジュイチェン)さんの作品があった。 合格通り商店街へと進むと、吉村屋寝具店のウィンドウに崔誠圭(チェ・ソンギュ)さんが、大東亜戦争を正当化した岩間弘氏の著作を引用している。紳士服のコナカの試着室には、既製品を使った金侑龍(キム・ユリョン)さんの作品。もみじという韓国料理店には、ワークショップで作られたヒサヨシさんの万華鏡。三美堂雑貨店には山田純平さんのテレビモニター。ライブハウスハーツの田中大介さんの作品は、インターネットを使って展開していくものだ。
この日はあいにく雨空で傘をさして回らなければならなかったが、それほど苦には感じなかった。散策がてら見て歩くのにちょうどよい作品数と距離である。
展示を見終え、私はmasuii R.D.Rで行われるトーク・イベントへと向かった。そこでは出品者である丸山芳子さんや陳維錚さんのトークと合わせて、NPO法人「コミュニティアートふなばし」を主宰している下山浩一さんが、「誰にでもわかるコミュニティーアート」というテーマで話をした。下山さんは、1997年頃から船橋で街を活性化させるための活動を続けている、コミュニティ・アートの草分け的存在である。
中で、住民といっしょに活動していると、若いボランティアたちが地元のおじいさん、おばあさんによく呼び止められるという話があり、私はそこに耳が止まった。彼らは、かつてその街で起きたことや買い物する場所、大工道具の使い方といったことまで、自分の知っていることをとにかく人に伝えたがっているそうなのだ。そしてそれを聞いてあげられるのは、まだ社会の中で確たる位置を得ていない若者たちなのである。
そういえば以前、「越後・妻有トリエンナーレ」でボランティアとして活動している女性から同じような話を聞いたことがある。「越後・妻有トリエンナーレ」とは、新潟県が主催し、過疎化の進む山間地域で3年に1度ずつ行われている大がかりな美術イベントだ。その女性は第一回展のときからこの事業に参加し、以降、毎回、同地に滞在するようになった。
新潟の寒村に住んでいるのは、すでにみな高齢者ばかりだ。そこに大学生ぐらいの若者が派遣されてくる。若者たちが体験する日々の暮らしは、何もかもが新鮮なことばかりだ。その純粋な興味に触れ、住民たちも少しずつ自分たちのことを語りだす。まだ都市社会にすれていない若者には、文化差という障壁がないのだ。
住民たちはいつしか、近代化の中で省みられることのなくなったその生活に、ある種の誇りを取り戻し始める。トリエンナーレという時間差が、双方にまた適度な思慕の情を募らせるらしい。こうして若者たちは、その地域にとってかけがえのない新鮮な空気となっていく。
首都圏では、シャッター通りとなった商店街を活性化させるための取り組みがよく紹介されるが、そのとき経済効果の議論だけに始終しがちだ。しかし、真の意味で住民に元気を与えるのは、他者に認めらるという一人一人のプライドなのである。そしてそれを高めるのは、話を聞いてくれる人とのコミュニケーションの力に他ならない。美術にはさまざまな利用価値があるが、コミュニティ・アートは人から人への伝達力という部分を最大限に利用しているのだと思う。
下山さんは、コミュニティアートふなばしの紹介文で、コミュニティ・アートについて次のように書いている。
『演劇・ダンス・美術・映像等の作品の共同制作を通じて、地域コミュニティ内の構成メンバーの親睦をはかるものから、コミュニティにおける課題の共有化や解決を狙う社会性の高いものまで、さまざまな試みが行われてきました。
このバラエティに富むコミュニティアートと呼ばれるプログラムに共通して見られる特徴として、「アーティストと市民の共同作業によるプロジェクトであること」「参加者の作品に対する積極的なコミットを奨励しプロセスを重視すること」「参加者の違いを認め尊重した上での創作活動であること」が挙げられます。』
ここでは「作品」と「アーティスト」、「共同制作(作業)」、「コミュニティ」という言葉の関係が述べられている。前段では、「作品」という動機づけから「共同制作」というプロセスを経て、最終的に「コミュニティ」の再生へと至る手順が示される。また後半では、「アーティスト」が主導するのではなく、市民と対等な「共同作業」の必要性が強調される。要するにそこでは、アーティストと住民が直接影響を及ぼし合いながら、その活動が有機的に進展していくことを企図しているのである。
トークの中で下山さんは、コミュニティ・アートは、コミュニティづくりが目的ではあるが、より実りあるものとするために優れた活動を行っているアーティストを選ぶことが重要だと語った。アーティストと参加者は平等だと言うものの、そこにはやはり魅力あるアーティストの存在が前提となっている。どんなにリベラルな社会になったとしても、人々を牽引するのは、やはり秀でた能力を持つ人間でなければならないということなのだろう。そうしたことから察するに、アートを手段と捉えているようなこの趣旨文も、本当のところ事業をよりスムーズに運ぶための常套句であることがうかがえる。
ところで私の理解では、コミュニティ・アートの基盤となる考え方はヨゼフ・ボイスの「社会彫刻」にあると見ている。ボイスは1972年ごろから、社会を一つの芸術的な総体と捉え、そこに精神的な深みを与える鍵は芸術家が握っていると考えるようになった。芸術家が作るべきは物体としての作品ではなく、人と人の結びつきそのものなのだ。それを実現させるために世界自由大学を創設し、また政党としての「緑の党」を推進することにもなる。おそらくそうした考えから影響を受けて、イギリスでのコミュニティ・アートも始動したのではないか。
一方、日本国内でコミュニティ・アートを標榜した動きが社会化するのは、1996年に始まる「トヨタ・アートマネジメント講座」だったように思う。1990年代に入ると、アメリカやイギリスでアート・マネジメントの理論を学んだ研究者が次々と帰国する。その手法と考え方を広めるため、この講座は毎年、開催地を変えながら日本全国で行われた。
同事業の報告書には、「アートを通して地域社会を活性化する『地域のアートマネージャー』を各地で育成し、行政・文化機関・地域など、さまざまなレベルで地元密着型のアートマネジメントが盛んになることを目的に、活動を推進」したと記されている。「アートを通して地域社会を活性化する」ことは、言うまでもなくコミュニティ・アートの本分である。
さらに2002年には「アサヒ・アート・フェスティバル」が始動する。そこでは「アートと社会をつなぎ、両者の関係を再構築」することを目的としたアート、すなわちコミュニティ・アートがその助成の対象となった。あたかも事前に計画されていたかのような企業どうしの見事な連携により、コミュニティ・アートは全国規模で数多くの実践を促すこととなる。そしてアーティストの側からも、藤浩志さんのようなコミュニティ・アートの専門家が登場する。
ところが最近、広報資料を見ていても、誰がアーティストとして参加しているのかよくわからない催しをしばしば目にするようになった。固有性を持ったアーティストはすでに不要となり、むしろ集団的な営みの中から自然発生的に生まれてくる人々のつながりを「アート」と呼んでいるようにさえ思える。そこでは、下山さんの定義を地でゆく、純粋なコミュニティ・アートが生まれ始めているのかもしれない。
たとえば埼玉では、2006年から文教大学の学生たちが越谷市内を使い「まちアートプロジェクト」を展開させている。ここでは、学生たちがアーティストの代わりとなってものづくりを行いながら、住民との交流を進めている。前述のように、若者は文化的な刷り込みが少ない分、どんな地域にも抵抗なく溶け込んでゆけるため、コミュニティづくりのためには、へたにアーティストを使うよりよほど即効性があるようだ。
また加須市では、昨年、小学校の児童が自分たちの作品を町内の民家に掲示する「まちかど美術館」という催しが行われ、住民から期待と賛同が寄せられた。子どもが中心とは言っても、当然そこには大人たちの全面的なサポートがある。そこで必然的にコミュニティづくりが促されるのである。「子はかすがい」と言うが、子どもは地域を結ぶための強力な動機づけともなる。
ここには、アイデンティティの確立を求めてきた近代以降の美術の文脈に収まらない、まったく新たな「アート」の姿が見える。アーティストがいたとしてもそれはひとつの役割であり、参加者との間に優劣の差はない。言い方を換えれば、すべての人はアーティストなのだ。これもまた自然適応の結果であり、ポストモダンに向けた美術の進化の一形態という捉え方もできるだろう。そしてそれこそが、ボイスの提唱した「社会彫刻」の完成形なのかもしれない。
では、アーティストは今後、コミュニティの中でその存在意義を失っていくのか。いや、決してそんなことはない。いくつかの地域で、アーティストの固有性を武器に、地域住民と役割を分け合いながら活動を展開させようとする動きも確実に見られるからだ。
たとえば、以前このブログでも紹介したが、川越市では街興し事業と並行しながら、街並みを利用した現代美術展がときどき行われている。そこでは美術家固有の感性により、展示場所に潜む歴史を象徴的に視覚化していく。そしてその地で暮らす人々は、作品からの示唆を受けながら地域性を活かすための方法を考えるのだ。ここにはコミュニティづくりに向けた、美術家と住民との自律的な役割分担が見られる。
このように、アーティストの感性によって生活空間の意味を変換させる現代美術プロジェクトとしては、1986年にベルギーのゲントでヤン・フートが企画した「シャンブル・ダミ」展が知られる。日本では、東京のギャルリー・ワタリがヤン・フートを招聘し、1991年と94年に石川県鶴来市で、街中の古い建物を利用した「ヤン・フートIN鶴来」を開いた。それはその後、市民に引き継がれ「アートフェスティバルIN 鶴来」として何度か続けられた。
またそれとほぼ並行し、1990年から九州の福岡市で、山野慎吾さんたちが中心となり「ミュージアムシティ天神」が開催された。三菱地所アルティアムを中心に、美術大学の学生から活躍中の美術家までが市内のあらゆる場所で作品の展示活動を繰り広げた。彼らは当初このやり方を、野外展などと同様にパブリック・アートの一環として捉えていたようだ。博多での成功以来、この方式は全国に飛び火し、今日では「ストリート・ミュージアム」という名で定着している。
このストリート・ミュージアム方式は、福岡に先駆ける1989年、長野県上田市で行われた「アートコンタクト」という催しですでに実践されていた。これは、現在、美術教育で活躍する三澤一実さんが企画したものだ。当時、三澤さんはこうした展覧会のやり方を「脱美術館」という言葉で表していた。この言葉には、美術館に展示するような固有の美術作品を前提とし、その上でそれらを日常の場に引き出そうという意図が見られる。
日本のストリート・ミュージアム方式の歴史はさらに古く、実は江戸時代まで遡ることができる。四国は土佐の赤岡で、夏の夜、繪金の描いた屏風絵を軒先に並べ、通りを往く人に披露するという習慣があった。それが地元の商工会により1977年から興行化され、有名な「絵金祭り」となる。これはまさに今日のストリート・ミュージアムの原型と言えるものだ。
このように考えると西川口プロジェクトは、本質的にはコミュニティ・アートではなく、ストリート・ミュージアムに近いように思う。たとえば丸山芳子さんの展示は、見る者が無意識に抱いている予見を鋭く暴露させる。その作品に触れることで、私たちは改めて地域社会を見直すきっかけを与えられる。しかし作品は、人々のそうした意識の変化と関わりなく、常に自律して私たちの目と向き合い続けている。
また、もみじの万華鏡を作った参加者たちは、同じ場所と時間にヒサヨシさんと作業を行ってはいるが、そこで生み出され持ち帰ることができるのは個々の作品と記憶だけである。たとえそこで参加者どうしの交流が生まれたとしても、それがアーティストの活動に直接の影響を与えることはおそらくない。
ライブハウスハーツで展示していた田中大介さんの作品は、西川口についての疑問をインターネットのホームページで紹介し、それを読んだ人が質問に答えるというものだ。作者が媒介となり人と人とを結び付けていくという点で、コミュニケーションを通したアートではあるが、そこはあくまでネット空間というバーチャルな場であり、地域社会という現実空間とは明確に位相を分けている。
こうした表現方法はいずれも、コミュニティ・アートの要素である「共同制作」や「コミュニティ」とどこかで関わっている。しかし、「アーティストと住民が直接影響を及ぼし合いながら」展開しているとはいいがたい。作者と作品、そして作品と観客の間には一定の隔たりがあり、むしろそれらが暗示的に影響を及ぼし合うことを望んでいるように見える。そうだとすれば、それは近代以降の美術のあり方とあまり変わっていない。
明治以降、西欧から導入された近代美術は、まず知識階級を中心に意識の近代化を促してきた。戦後になると美術教育とも連帯して、個人主義的な思考方法を国民全体に行き渡らせるようになった。ところがその後の急激な経済発展に伴い、人々のアイデンティティ形成は生活様式の変化の速さに追いつかなくなってきた。最近になって集団主義や国家主義の再評価が行われるようになったのも、そのギャップを埋めるための一種の揺り戻しなのだろう。
少子化問題や高齢化問題といった難問が山積する中、コミュニティ・アートは、ひとつの対症療法として各界から財政的支援を受け、今後もしばらくは発展していくと思う。そこで活動するアーティストには、これまでのような過大な自己主張は認められない。それよりもアートは、人間関係を円滑化させる道具として、自分ではなく他者のために役立てられるべきである。自分本位を謳歌した戦後世代に対し、コミュニティ・アートを担う若い世代は、そうした批判意識さえ内在させているように見える。
一方で、では日本はどこまで近代化したのかという問題がある。交通においても産業においても、私たちの生活環境はたしかに見違えるほど整った。ところがその繁栄の裏には、集団いじめや残業代の未払い、希望格差や自殺の増加といった人災が止むことなく増加している。こうした制度的不具合の最大の要因は、結局のところ集団と自己の境界のあいまいさにあるのではないか。そしてそれを根深く引きずらせているのは、未成熟な日本人の自己意識にある。
おそらく美術もまた、集団と自己をいかに調停するかという課題と向き合い、新たな取り組みを開始しなければならない時期にきているのだろう。これまでのように、自分本位に生きられる時代でないことは明らかだ。しかし、だからといって、せっかくここまで積み上げてきた表現活動の個別性を無碍に捨ててしまってよいものだろうか。人は自己のみで生きられず、かといって自己を消すこともできない生き物なのだ。そしてそれは、人類永遠のテーマでもある。
[2009/1/10 松永記]