[レビュー]
■展覧会は成長する-ART SALAD展を見て
9月23日に開かれたART SALAD展のオープニングに行った。川口市立アートギャラリー・アトリアと、masuii R.D.Rの2会場を使って行われていた。アトリアはすべての会場を使った14人の美術家による大作の展示で、それぞれがこの会場のために力のこもった作品を制作していた。一方、masuii R.D.Rの方は38人の美術家による小品展で、ドローイングやレリーフ、オブジェなどバラエティーに富み、どれも手に取ってみたくなる作品ばかりであった。
この展覧会をプロデュースする宮川真弓さんは、長く銀座のGアートギャラリーに勤務していた人だ。画廊での仕事の傍ら、展覧会を行う作家と個人的な付き合いを深めていたという。遠方の作家には、宿泊場所として川口の自宅を提供したりもした。しかし同画廊は、常連の利用者たちに惜しまれながら2003年12月に閉廊した。
それから1年がたった2004年12月、川口のmasuii R.D.Rで、Gアートギャラリーに関わった30人の作家展が開かれることになった。それはあたかも同窓会のような盛り上がりとなった。ART SALADというタイトルは、アーティストを旬の野菜に見立て、それにプロデューサーというドレッシングをかけて味わってもらうことを願い名づけたという。
第1回展終了後、1年半のあいだを置き、2006年3月にmasuii R.D.Rと川口アートファクトリーの2会場を使ってART SALADの第2回展が開かれた。適度に開いたメンバーたちの距離感覚が、互いの絆をかえって強めたのだろう。川口アートファクトリーには、本格的な作品づくりに挑戦したくなった5人の作家の大作が展示された。
前述のように、第4回展となる今回は、masuii R.D.Rに川口市立アートギャラリー・アトリアを加え、さらに12月には、ソウルにあるクァンフン・ギャラリーにも巡回することになっている。ソウル展に関しては、第3回展から加わった3人の韓国人作家がその準備に当たっており、このことでまた新たな展開の兆しも見えてきた。
宮川さんは、展示にはっきりしたテーマを掲げず、作品の内容もそれぞれの作家に任せているという。その点で作家主体の展覧会のようにも見える。企画展の場合は、展覧会の趣旨や出品者の選択を通して世に何かを問うことが多いのだが、ART SALAD展はそれらとまったく違ったスタンスを取っている。この展覧会の目的はむしろ、発表の場をつくること自体にあり、そのことで美術家たちに制作を続けるための動機づけを行っているように思える。
戦後の経済成長の中で、作品制作を行おうとする人々は、自ら経費を負担することで発表活動を行ってきた。しかし経済成長がすでに終焉した今日、大多数の美術家たちは、心身ともにその余裕を失いつつある。制作を続ける意志はあっても、環境がそれを許さなくなったのだ。そうした美術家たちの心境を現場で直に見てきた宮川さんは、かつてGアートギャラリーが果たした役割を、別な形で再生させようとしているのではないか。そして、こうした時代だからこそ宮川さんのような人の存在が注目されるのである。
民間で行われている展覧会の中で、ART SALADのように美術家以外の人が中心になってとりまとめている例は以外に少ない。作品の制作はもちろん、会場費の支払い、作品の運搬・展示、広報物の製作・送付といったすべての雑務を作者自身でこなすのがふつうだ。公共的な催しであるはずの美術展が作者の内で自己完結しているのは、他の先進国に見られない現象である。いったいどのようにして、日本にこのようなシステムが定着してきたのだろう。
話は江戸時代に遡る。その頃、日本に「美術」という枠はなく、大和絵や浮世絵、仏像彫刻、焼き物といった領域ごとに、それぞれ異なる流通システムを持っていた。ところが、開国して欧米から「美術」という制度が導入され、それがひとつの業種として世間で位置づけられるようになった。以降、ものづくりを専門とする技術者たちは、領域の別を超えて「美術」という絆によって緩やかに結びつくようになった。
美術業界の最も重要な役割は、優れた美術家や美術作品を評価し選別することである。そこで日本では、分野ごとに美術家の序列が形成され、上位者が下位者を評価し選別するというシステムが生まれた。そうなると、作品の善し悪しは美術家の間だけで審理され、作品を作っていない人たちの見方はその価値判断から排除されるようになる。
こうしたあり方に対し、1960年代から変化が起きた。まず美術評論家と呼ばれる人々が、美術雑誌等の後押しを受けながら、美術家の評価や選別に関与するようになったのだ。その後、美術記者や美術館員といった美術家以外の専門職たちが、次々と作品の評価に加担してきた。こうした変化を受け入れようとする人々と排除する人々が、鮮烈な対立を起こすこともままあった。しかし、その波にさらされることなく、美術家が美術業界を取り仕切るという伝統的なシステムを継承しているところもまだ多い。
さいたま市周辺にはたくさんの美術家が居住していながら、横浜と比べて彼らの活動が周知されにくいことを、私はこれまで繰り返し述べてきた。その理由を探るため、試みに2006年度の美術手帖の美術年鑑から、美術評論家、美術ジャーナリストといった美術家以外の美術関係者の数を拾い上げてみたことがある。その結果、神奈川県には26人いたのに対し、埼玉県ではたった6人しか見つけられなかった。マスメディアが美術家を紹介するとき、まずその媒介者から情報提供を受けようとするのは考えてみれば当然のことで、埼玉にはその人材が欠けていたのである。
かつて美術作品は、作者から直接、利用者に手渡されるものだった。産地直売方式と言ってもよい。こうした流通のあり方は、これからも消えることはないだろう。しかし、美術家の活動が社会の中で承認されるためには、作品の流通を仲介する立場の人間がどうしても必要となる。商品情報を広く正確に伝えることが、まさに流通業者の役目だからだ。今日、同時代の美術が一般の人たちにもようやく認知されるようになったが、そのために美術の媒介者たちが果たした力は測り知れない。
ART SALAD展では、展覧会から離れていく作家がいる一方で、メンバーからの推薦により近隣在住の出品者が増えてきているという。そのことで、展覧会に関わる業務の分担がしやすくなったそうだ。出品者たちがそれぞれ役割を分け合うようになると、作品を作っていない人も自ずと展覧会への加担がしやすくなるのではないか。美術家自身のために行われていた展覧会は、こうして少しずつみんなのものへと開かれていくのだと思う。
そういえば、これまでは同展の紹介文に、「Gアートギャラリーで出品していた作家たちを中心として」という言葉を入れていたのだが、今回はそれを外したそうだ。これもまた、この展覧会が公共性を持ちつつあることの証だろう。展覧会が個人的な枠を超えて、美術家と社会を結ぶ媒介として機能し始めたのだ。プロデューサーという立場で関わっている宮川さんの本領が発揮されるのは、まさにこれからである。
ところで、これは余談だが、アトリアに行くとよく子どもの姿を目にする。そのこと自体はよいのだが、問題は、彼らが気軽に展示作品に触ろうとすることだという。アトリアは場所がら、造形教育の場としての機能を重視しており、子どもたちの創造性を培うためのワークショップをしばしば実施している。そのため、子どもたちにとってアトリアは、作品鑑賞の場というより創作の場というイメージが強いのだと思う。そうした状況に対し宮川さんは、作品の展示施設では、作品の見方をまず第一に教えるべきではないかと疑問を呈する。
今日の公共の美術施設の中で、子どものための造形プログラムを実施していないところはない。どこでも何かしら、子ども向けのワークショップが開かれている。その中でも特に問題となるのは、鑑賞のための場と創作のための場が近接している施設である。そこでは、子どもたちの意識の中で、作品を見ることと作ることがうまく切り替えられないのだ。そのため、アトリアのように限られたスペースでその両立を目指さなければならない場合、さまざまな矛盾が起きてくる。
明治以降、西洋からもたらされた「美術」は、社会制度として日本国内に根づいていった。一方、戦後になると、個性重視の教育制度を通して、子どもたちの創作の中に新たな芸術性が見出されるようになった。しかし、同じ「美術」という言葉が当てられてはいるが、実は、これらはまったく別な機能を有しているのだ。
鑑賞のための教育施設と創造のための教育施設は、いずれ分けられていくと思う。それまでの間、この二重基準をどのように調整していくかが、公立の美術施設に課される問題となるだろう。
ART SALAD-38人による小さな作品展
2008年9月22日~10月5日
masuii R.D.R
川口市幸町3-8-25-109
電話:048-252-1735
ART SALAD 14人展
2008年9月23日~28日
川口市立アートギャラリー・アトリア
川口市並木元町1-76
電話:048-253-0222
ART SALAD韓国巡回展
2008年12月17日~22日
Kwanhoon Gallery
195 Kwanhoon-dong,Chongro Seoul 110-300 Korea
■展覧会は成長する-ART SALAD展を見て
9月23日に開かれたART SALAD展のオープニングに行った。川口市立アートギャラリー・アトリアと、masuii R.D.Rの2会場を使って行われていた。アトリアはすべての会場を使った14人の美術家による大作の展示で、それぞれがこの会場のために力のこもった作品を制作していた。一方、masuii R.D.Rの方は38人の美術家による小品展で、ドローイングやレリーフ、オブジェなどバラエティーに富み、どれも手に取ってみたくなる作品ばかりであった。
この展覧会をプロデュースする宮川真弓さんは、長く銀座のGアートギャラリーに勤務していた人だ。画廊での仕事の傍ら、展覧会を行う作家と個人的な付き合いを深めていたという。遠方の作家には、宿泊場所として川口の自宅を提供したりもした。しかし同画廊は、常連の利用者たちに惜しまれながら2003年12月に閉廊した。
それから1年がたった2004年12月、川口のmasuii R.D.Rで、Gアートギャラリーに関わった30人の作家展が開かれることになった。それはあたかも同窓会のような盛り上がりとなった。ART SALADというタイトルは、アーティストを旬の野菜に見立て、それにプロデューサーというドレッシングをかけて味わってもらうことを願い名づけたという。
第1回展終了後、1年半のあいだを置き、2006年3月にmasuii R.D.Rと川口アートファクトリーの2会場を使ってART SALADの第2回展が開かれた。適度に開いたメンバーたちの距離感覚が、互いの絆をかえって強めたのだろう。川口アートファクトリーには、本格的な作品づくりに挑戦したくなった5人の作家の大作が展示された。
前述のように、第4回展となる今回は、masuii R.D.Rに川口市立アートギャラリー・アトリアを加え、さらに12月には、ソウルにあるクァンフン・ギャラリーにも巡回することになっている。ソウル展に関しては、第3回展から加わった3人の韓国人作家がその準備に当たっており、このことでまた新たな展開の兆しも見えてきた。
宮川さんは、展示にはっきりしたテーマを掲げず、作品の内容もそれぞれの作家に任せているという。その点で作家主体の展覧会のようにも見える。企画展の場合は、展覧会の趣旨や出品者の選択を通して世に何かを問うことが多いのだが、ART SALAD展はそれらとまったく違ったスタンスを取っている。この展覧会の目的はむしろ、発表の場をつくること自体にあり、そのことで美術家たちに制作を続けるための動機づけを行っているように思える。
戦後の経済成長の中で、作品制作を行おうとする人々は、自ら経費を負担することで発表活動を行ってきた。しかし経済成長がすでに終焉した今日、大多数の美術家たちは、心身ともにその余裕を失いつつある。制作を続ける意志はあっても、環境がそれを許さなくなったのだ。そうした美術家たちの心境を現場で直に見てきた宮川さんは、かつてGアートギャラリーが果たした役割を、別な形で再生させようとしているのではないか。そして、こうした時代だからこそ宮川さんのような人の存在が注目されるのである。
民間で行われている展覧会の中で、ART SALADのように美術家以外の人が中心になってとりまとめている例は以外に少ない。作品の制作はもちろん、会場費の支払い、作品の運搬・展示、広報物の製作・送付といったすべての雑務を作者自身でこなすのがふつうだ。公共的な催しであるはずの美術展が作者の内で自己完結しているのは、他の先進国に見られない現象である。いったいどのようにして、日本にこのようなシステムが定着してきたのだろう。
話は江戸時代に遡る。その頃、日本に「美術」という枠はなく、大和絵や浮世絵、仏像彫刻、焼き物といった領域ごとに、それぞれ異なる流通システムを持っていた。ところが、開国して欧米から「美術」という制度が導入され、それがひとつの業種として世間で位置づけられるようになった。以降、ものづくりを専門とする技術者たちは、領域の別を超えて「美術」という絆によって緩やかに結びつくようになった。
美術業界の最も重要な役割は、優れた美術家や美術作品を評価し選別することである。そこで日本では、分野ごとに美術家の序列が形成され、上位者が下位者を評価し選別するというシステムが生まれた。そうなると、作品の善し悪しは美術家の間だけで審理され、作品を作っていない人たちの見方はその価値判断から排除されるようになる。
こうしたあり方に対し、1960年代から変化が起きた。まず美術評論家と呼ばれる人々が、美術雑誌等の後押しを受けながら、美術家の評価や選別に関与するようになったのだ。その後、美術記者や美術館員といった美術家以外の専門職たちが、次々と作品の評価に加担してきた。こうした変化を受け入れようとする人々と排除する人々が、鮮烈な対立を起こすこともままあった。しかし、その波にさらされることなく、美術家が美術業界を取り仕切るという伝統的なシステムを継承しているところもまだ多い。
さいたま市周辺にはたくさんの美術家が居住していながら、横浜と比べて彼らの活動が周知されにくいことを、私はこれまで繰り返し述べてきた。その理由を探るため、試みに2006年度の美術手帖の美術年鑑から、美術評論家、美術ジャーナリストといった美術家以外の美術関係者の数を拾い上げてみたことがある。その結果、神奈川県には26人いたのに対し、埼玉県ではたった6人しか見つけられなかった。マスメディアが美術家を紹介するとき、まずその媒介者から情報提供を受けようとするのは考えてみれば当然のことで、埼玉にはその人材が欠けていたのである。
かつて美術作品は、作者から直接、利用者に手渡されるものだった。産地直売方式と言ってもよい。こうした流通のあり方は、これからも消えることはないだろう。しかし、美術家の活動が社会の中で承認されるためには、作品の流通を仲介する立場の人間がどうしても必要となる。商品情報を広く正確に伝えることが、まさに流通業者の役目だからだ。今日、同時代の美術が一般の人たちにもようやく認知されるようになったが、そのために美術の媒介者たちが果たした力は測り知れない。
ART SALAD展では、展覧会から離れていく作家がいる一方で、メンバーからの推薦により近隣在住の出品者が増えてきているという。そのことで、展覧会に関わる業務の分担がしやすくなったそうだ。出品者たちがそれぞれ役割を分け合うようになると、作品を作っていない人も自ずと展覧会への加担がしやすくなるのではないか。美術家自身のために行われていた展覧会は、こうして少しずつみんなのものへと開かれていくのだと思う。
そういえば、これまでは同展の紹介文に、「Gアートギャラリーで出品していた作家たちを中心として」という言葉を入れていたのだが、今回はそれを外したそうだ。これもまた、この展覧会が公共性を持ちつつあることの証だろう。展覧会が個人的な枠を超えて、美術家と社会を結ぶ媒介として機能し始めたのだ。プロデューサーという立場で関わっている宮川さんの本領が発揮されるのは、まさにこれからである。
ところで、これは余談だが、アトリアに行くとよく子どもの姿を目にする。そのこと自体はよいのだが、問題は、彼らが気軽に展示作品に触ろうとすることだという。アトリアは場所がら、造形教育の場としての機能を重視しており、子どもたちの創造性を培うためのワークショップをしばしば実施している。そのため、子どもたちにとってアトリアは、作品鑑賞の場というより創作の場というイメージが強いのだと思う。そうした状況に対し宮川さんは、作品の展示施設では、作品の見方をまず第一に教えるべきではないかと疑問を呈する。
今日の公共の美術施設の中で、子どものための造形プログラムを実施していないところはない。どこでも何かしら、子ども向けのワークショップが開かれている。その中でも特に問題となるのは、鑑賞のための場と創作のための場が近接している施設である。そこでは、子どもたちの意識の中で、作品を見ることと作ることがうまく切り替えられないのだ。そのため、アトリアのように限られたスペースでその両立を目指さなければならない場合、さまざまな矛盾が起きてくる。
明治以降、西洋からもたらされた「美術」は、社会制度として日本国内に根づいていった。一方、戦後になると、個性重視の教育制度を通して、子どもたちの創作の中に新たな芸術性が見出されるようになった。しかし、同じ「美術」という言葉が当てられてはいるが、実は、これらはまったく別な機能を有しているのだ。
鑑賞のための教育施設と創造のための教育施設は、いずれ分けられていくと思う。それまでの間、この二重基準をどのように調整していくかが、公立の美術施設に課される問題となるだろう。
ART SALAD-38人による小さな作品展
2008年9月22日~10月5日
masuii R.D.R
川口市幸町3-8-25-109
電話:048-252-1735
ART SALAD 14人展
2008年9月23日~28日
川口市立アートギャラリー・アトリア
川口市並木元町1-76
電話:048-253-0222
ART SALAD韓国巡回展
2008年12月17日~22日
Kwanhoon Gallery
195 Kwanhoon-dong,Chongro Seoul 110-300 Korea
[2008/10/13 松永記]