[9月の創発2010レビュー]
浜田賢治新作展(創発プロジェクト)
今回の展示は、空間を意識した展示、インスタレーション的に作品にあらわれた空気感、余白・画面の動きを画廊空間と共有させることをもくろんだ。それは、予定総出品数約35点から13点ほどを急遽外して、空間とのかかわりを鮮明に意識してみせたことに表れる。結果、よりあきらかに作者の思いが抽出された。おおむね鑑賞者にも好感を持たれた展示となった。この事は作家と画廊の展示における踏み込んだ意見交換が功を奏した一例として、今後おおいに役に立つ内容といえよう。
補足として、通常における展示する位置を変更し、内容性を際だたせるために高く設定をかえた。作者が捧げものと称する対象物としてのその作品の内容にも合致する位置関係となった。
浜田氏の作品には、およそ一年前より拝見する機会に恵まれている。永年の「何処から・・・何処へ」の連作は、ミクストメディア、版画、立体……そして今に至る「ペン状」(*)画へと移行するということは、数点の氏の手元に残る作品と写真より示してもらい、その痕跡と実体を理解した。有機的な線の形状と豊かな色味は心の深みとひだを感じることが出来るという印象をもつ。
「ペン状」画という作品は作家にとって、およそ10年前に試行錯誤した過程での作品の再制作という流れに含まれる。その意図には作家の振幅する執着を感じる。「何処・・・」の多用な技法に埋没することの危機感を覚えたのではないかと思わせる。時流の物欲的な流行り廃りや、大衆の見切り方、画廊と対峙する作家の矛盾。作品が単純に簡素化される色調の絞り込みなど、根本の生き様にも通じた選択が読み込まれる気もする。
画面の質感から読み取れる作者の制作の意図と、他者が観るという位置関係は、千差万別の差異を生む。空間を取り込むことにより、それは無限に近く変化する。
四辺のある表面に加筆していく行為は、その辺の長さにより刻まれる呼吸も違うであろう。糸を紡ぐような、そして織るような、一目一目を拾う古代の鼓動をひもとく……。
浜田賢治新作展(創発プロジェクト)
近内眞佐子(画廊主、絵画造形教室主宰)
永年の「何処から・・・」のシリーズをへて、今「勹」へと。作家の生命の刻みといざないの普遍の絵画から、再び、小宇宙の中のそのまた中心へと這い、歩み、そして近付き・・・“触れる”という肉薄した表現をつかみ、感じ取ることに移行していることが予見できる。その起因するであろうところは、18歳から創作してきた浜田賢治の根源的な縄文人の思い、また長らく探求してきた神仏信仰への共鳴だという。日常的においてもそのあたりのことを思い、感じ、創作しているという姿がうかがわれる。今回の展示は、空間を意識した展示、インスタレーション的に作品にあらわれた空気感、余白・画面の動きを画廊空間と共有させることをもくろんだ。それは、予定総出品数約35点から13点ほどを急遽外して、空間とのかかわりを鮮明に意識してみせたことに表れる。結果、よりあきらかに作者の思いが抽出された。おおむね鑑賞者にも好感を持たれた展示となった。この事は作家と画廊の展示における踏み込んだ意見交換が功を奏した一例として、今後おおいに役に立つ内容といえよう。
補足として、通常における展示する位置を変更し、内容性を際だたせるために高く設定をかえた。作者が捧げものと称する対象物としてのその作品の内容にも合致する位置関係となった。
浜田氏の作品には、およそ一年前より拝見する機会に恵まれている。永年の「何処から・・・何処へ」の連作は、ミクストメディア、版画、立体……そして今に至る「ペン状」(*)画へと移行するということは、数点の氏の手元に残る作品と写真より示してもらい、その痕跡と実体を理解した。有機的な線の形状と豊かな色味は心の深みとひだを感じることが出来るという印象をもつ。
「ペン状」画という作品は作家にとって、およそ10年前に試行錯誤した過程での作品の再制作という流れに含まれる。その意図には作家の振幅する執着を感じる。「何処・・・」の多用な技法に埋没することの危機感を覚えたのではないかと思わせる。時流の物欲的な流行り廃りや、大衆の見切り方、画廊と対峙する作家の矛盾。作品が単純に簡素化される色調の絞り込みなど、根本の生き様にも通じた選択が読み込まれる気もする。
画面の質感から読み取れる作者の制作の意図と、他者が観るという位置関係は、千差万別の差異を生む。空間を取り込むことにより、それは無限に近く変化する。
四辺のある表面に加筆していく行為は、その辺の長さにより刻まれる呼吸も違うであろう。糸を紡ぐような、そして織るような、一目一目を拾う古代の鼓動をひもとく……。
(*)「ペン状」:氏が制作するところの、痕跡を残すために用いるペンに似た媒体の意
[2010/12/29]