[9月の創発2010レビュー]


 「アートスクランブル2010」訪問観賞記

栗原良子(高校国語科講師) 

 わたなべ画廊の展覧会期は毎年9月、アートスクランブルから始まる。案内ハガキには「猛暑で疲れた心を潤しに、どうぞお越しください」とあって、暑かった2010年の晩夏、美術の秋が始まることをうれしく感じたのを覚えている。並んでいる6人の名を見ると、ここで個展を開催したことのある方、何度か作品を拝見した作家、初めて目にする名前もあって、どんな世界を見せてくれるのか、楽しみである。
 仕事の合間を縫って訪れると、贅沢な展示であった。一人一作品、計6点のみが、四角い画廊の三面に、空間をとって掛けられている。正面に置かれた金箔に紫色の抽象がまず、目に入った。工芸のニュアンスもありながら張りつめた感覚、上端の荒い幅をもつ線分が確信的で、そこから自信のようなものが伝わってくる。「これはどなた?」とたずねると、初参加の作家、北村真行氏であった。剣持綾子氏のポツポツ穴あけ、パラフィン紙(?)の作品はとぼけていて、他の作家が力を込める展示の中にあって、その脱力ぶりが楽しかった。どんな世界を探ろうとしているのだろう、これからどんな展開につながっていくのだろうかと考えた。
 こづま美千子氏の作は、柔かな雲のようなものがぽっかり。周辺の鈍い色のバランスには女性的な臨場感があり、いつも共感を覚える。田中芳氏は、銀箔に糸、のシリーズ。有機的な糸の形に、氏が言う『「生命の存在は・・漂う塵』の形容を思い出した。
 山本剛史氏は珍しい手法を使っていると、画廊主の渡辺典子さんから説明を受けた。銅版画を制作していた方であるが今回、原版は写真でパソコンに取り込んで制作した作品らしい。古い建物が一棟、シャープな構図なのだがなつかしさが伝わってくる。中央で二画面を合わせた線分が、もう失われた古い建物の象徴のようだった。
 高岸まなぶ氏の作品は、持ち味を発揮したブルーの美しい花が、壁にマッチして収まっている。色や線のニュアンスを楽しもうと近づいてみると、花瓶の右下にうっすら金魚が隠れているではないか。それも水玉模様の。ニヤリとしてしまう。具象画でありながら実は時空を超えた非現実的画面は、細部に大胆な介入があって楽しかった。画面は明るい。
 さて、一人一作品を提出する機会に、作家は何を中心にして作品を制作するのだろう。見る者としては僭越であるが、現在の作家の清新さが見たい。作家が今課題にしているものへのチャレンジ、試みが、作品に動的な印象を与えるのではないだろうか。その気風、気合というものは見る人に伝わると私は思う。
 現代美術は着地点でなく、冒険の過程やゆらぎそのものが求められているのではないか。そんな作品に出合うと、見る者は共に発奮して、自らの未知にまで出会えたような刺激を受ける。気づかずにいた何ものか、あるいは長い間眠っていた感覚が作品と出会うことによって、他の角度から光を当てられ、立ち上がってくる。今(現代)という時代にあってこその、出会う今の、年齢と経験によって見る人それぞれが感応できる、そんな作品と出会いたい。
 入口側の残る壁の一面には、6人の作家が記したプロフィールと制作上のコメントが貼られていた。山本氏はレンガ倉庫の存在に感銘を受けて新潟糸魚川まで訪れたこと、『色々試したい・・今は自然体で、日々の感動が伝えられれば。』と記している。その感動は伝わっていたと思う。
 高岸氏のメモは自作品のことではなく、わたなべ画廊の存在についての記述であった。『古代、陸奥の入り口であったろう飯能の街に、涼しげな画廊空間がある。空間を提供しうる心持ちが、なんの魂胆を持ち合わせないことがなんとも涼しい。涼しげな壁面こそ、思潮を超え、世代感覚をも忘れ、いい感覚で…人が集まる。』という。6点だけの企画であったが、気持ちの良い空間でゆっくり1点1点と対峙し、それぞれの清新な刺激を受けることができたのであった。

[2011/1/6]



[9月の創発2010]
【№06】

[会場写真]
アートスクランブル会場写真(1)

アートスクランブル会場写真(2)