[9月の創発2010レビュー]
小さくとも大きなココロミ
田中千鶴子の「消地─2」をめぐって
ふだんわたしたちは、不用意に市民社会というコトバを連呼しているが、市民社会の不条理には、そこを少しでも逸脱しようとすると、直ちにさまざまなものが撥ねかえってくる。そこで、市民は、それぞれの利害を秘匿しながら、予期しうるトラブルを避けるため、日々微笑の中でやり過ごすという習性をしっかり身につけざるをえない。
好悪に関わらずわたしたちは、この環境の中で生活せざるをえない。しかし、この環境の中に、ホンのわずかの異物を入れると、たちまち化学変化をきたし、そこからあまたのものが噴出してくるのは日常的なことである。
市民社会は、一見すると表面的な安定を見せてはいても、実際は、個人という核の中にみずからを閉じ込めていることによってそれが現出しているにすぎない、と思う。
田中千鶴子の「消地─2」がココロミたのは、そうした自閉していく市民社会の中の個人への問いかけであった。このココロミじたいは小さくとも、秘められたものは大きかったのである。
かつてアースワークスという、自然主義的・エコロジー主義的ムーブメントが一世を風靡したことがあったが、土地の権利関係とは無縁なところで、つまりそうした非アート的なところはどこまで考慮されたことか分からないが、むしろ、非アート的な行為の中に、アートの本質が見えていたのだと、いま思っている。日本でもまちおこしのイベントとしてアースワークスのココロミがないとはいえないが、同じような疑問をわたしは感じている。
土地の権利という市民社会のかなり根幹に少しでもふれる表現行為の意義は、うかつにもこれまでないがしろにされてきた。面倒をあらかじめ避けたいという敗北主義がそうさせてきた。
作家の意識が萎えない限り、敗北主義が訪れない限り、小さくとも大きなココロミはつづけられなければならない。市民社会という、かなり厄介な環境の中で作家活動をつづけることは大いに意味があるのだ。
たといそこから少し離れて、つまり許された閉じられた室内空間で表現をつづけても、わたしたちは市民社会という、一言で表現しにくい環境から究極的には逃れることができないのだから。
「消地─2」は、いまは住宅の建っていない原っぱに、所有者の権利をおかさずに、つまりアチコチ了解を得てなされたインスタレーションであった。インスタレーションは、3つの籠の中に、この土地にいるであろう生き物を鋳鉄で作り、浮かしてあるものである。しかし、この籠の中の鋳鉄の生き物は、おそらく籠という<権利>の中でしか生きられないのであろう。そういう環境の中にわたしたちはいるのだ。
小さくとも大きなココロミ
田中千鶴子の「消地─2」をめぐって
寺田 侑(美術論専攻)
ふだんわたしたちは、不用意に市民社会というコトバを連呼しているが、市民社会の不条理には、そこを少しでも逸脱しようとすると、直ちにさまざまなものが撥ねかえってくる。そこで、市民は、それぞれの利害を秘匿しながら、予期しうるトラブルを避けるため、日々微笑の中でやり過ごすという習性をしっかり身につけざるをえない。
好悪に関わらずわたしたちは、この環境の中で生活せざるをえない。しかし、この環境の中に、ホンのわずかの異物を入れると、たちまち化学変化をきたし、そこからあまたのものが噴出してくるのは日常的なことである。
市民社会は、一見すると表面的な安定を見せてはいても、実際は、個人という核の中にみずからを閉じ込めていることによってそれが現出しているにすぎない、と思う。
田中千鶴子の「消地─2」がココロミたのは、そうした自閉していく市民社会の中の個人への問いかけであった。このココロミじたいは小さくとも、秘められたものは大きかったのである。
かつてアースワークスという、自然主義的・エコロジー主義的ムーブメントが一世を風靡したことがあったが、土地の権利関係とは無縁なところで、つまりそうした非アート的なところはどこまで考慮されたことか分からないが、むしろ、非アート的な行為の中に、アートの本質が見えていたのだと、いま思っている。日本でもまちおこしのイベントとしてアースワークスのココロミがないとはいえないが、同じような疑問をわたしは感じている。
土地の権利という市民社会のかなり根幹に少しでもふれる表現行為の意義は、うかつにもこれまでないがしろにされてきた。面倒をあらかじめ避けたいという敗北主義がそうさせてきた。
作家の意識が萎えない限り、敗北主義が訪れない限り、小さくとも大きなココロミはつづけられなければならない。市民社会という、かなり厄介な環境の中で作家活動をつづけることは大いに意味があるのだ。
たといそこから少し離れて、つまり許された閉じられた室内空間で表現をつづけても、わたしたちは市民社会という、一言で表現しにくい環境から究極的には逃れることができないのだから。
「消地─2」は、いまは住宅の建っていない原っぱに、所有者の権利をおかさずに、つまりアチコチ了解を得てなされたインスタレーションであった。インスタレーションは、3つの籠の中に、この土地にいるであろう生き物を鋳鉄で作り、浮かしてあるものである。しかし、この籠の中の鋳鉄の生き物は、おそらく籠という<権利>の中でしか生きられないのであろう。そういう環境の中にわたしたちはいるのだ。
[2011/1/24]