[9月の創発2010レビュー]


 見えない橋

柳井嗣雄(和紙造形作家) 


 私のアトリエの前には名栗川(入間川上流)の清流が流れる。川岸は小さな岬のように突起していて、そこに不揃いな八個の石が連なる階段がある。昔、ここには橋が架かっていたという。おそらく土地の西川杉を材料とした素朴な木橋だったのだろう。みすぼらしい石段を上ると、木々が岩盤にしがみつくように根を張っていて、現在、橋の残滓はどこにもない。かつて、この辺りはしばしば川が氾濫して床まで浸水したこともあった。何年前の水害で流されたのか誰も知らないし、気にする人もいないが、その橋は確かに存在していた。昭和61年に上流にダムが完成したが、ここに橋は二度と架けられることはなかった。

 一昨年の夏ここに引っ越して来たばかりの時に、<創発>2009にオープンアトリエという形で参加した。この時はアトリエ造りが優先だったので展示はありあわせの作品で間に合わせた。そして今回<創発>2010ではパフォーマーを招くということもあって、アトリエ内展示と共に庭全体を麻繊維で被うという設いにした(阿蘇山晴子によるイベント当日は残念ながら雨天で、ほとんど庭作品は舞台として使用されなかった)。アトリエを会場にして、開放するのは<創発>で初めての試みである。新しい土地での新参者にとっては、仕事や私的空間を公開することにより地域住民と親しい関係を築くという目的もあった。

 今回は初めに橋のイメージがあった。地域社会とのつながり、個と共同体、自己と他者、生活と環境、過去と未来、生と死、見えるものと見えないもの、そのような総体としてのおぼろげな橋のイメージだ。アトリエは、いわば胎内であって外に向かって生を主張する。胎内での出来事は目には見えないが、新たな活動は母体と一体化したまま微かに脈動している。そして全く異なった環境に放り出されたいのちは、物理的には母体から独立し外の空間に接触することになるが、その内部空間では確実に遺伝子レベルで母体と繋がれた同一体であり、同時に膨大な時間的空間を背負った存在でもある。それは「見えない橋」が時空を超えた相対的関係の中に架設されたまま漂っているように見える。

 大洪水について、神はノアに告げた。
 「私は今、地に大洪水をもたらして、その内に命の力が活動しているすべての肉なるものを天の下から滅ぼし去ろうとしている」(創世記・第6章)
 この箇所では、天と地の概念と同時に、肉体の中に宿る霊魂といったような二元論的な構図が見えてくる。しかし「命の力」とは何か。ここではルーアハ“RUACH”(筆者によるアルファベット表記)というヘブライ語を用いている。聖書中のルーアハという語は力、つまり「生命力」と訳されるだけではなく「霊」とも訳される。つまり霊とは、肉体(物体)に命を与えるものであり、生きている被創造物すべてを活動させる精神、生気や目に見えない力を暗示している。
 宗教や神話の被創造物は不在のものでありながらも、知覚的には存在する。しかしそれを実体として認知するためには超感覚的知覚のようなもの、ある種の信仰心が要求されるだろう。不在のものから実在の像をイメージするというありきたりの想像力ではなく、そこから生起してくる見えない力のようなものを感じ取る精神感応である。それこそが“RUACH”という語で示される。「ルーアハ」すなわち、霊的なるもの(精神や心や魂、あるいは生命力や記憶)が体を離れる時、物質(肉体)は死に、それが元々あったところである地に帰る。同様に生命力はそれがもともとあったところである神に帰る。この考えは、物質的なものは常に下降運動をし精神的なものは浮力と関係を持つといったような二元論に立つベルグソンの『創造的進化』に連動していく。

 アトリエ内、ほぼ中央を横断するように橋を架けた。二つの故郷をもつ二重橋だ。巾1.15mの細長い和紙 - 水を栄養分として成長する植物/麻の繊維を素材に、水の中で水の力で形成され、乾燥したものを紙とするならば - 紙の橋はまさしく水に触れて溶かされ水に帰還する宿命を負った「見えない橋」ということができないだろうか。それは水面に接することなく、重力より浮力として、遮蔽するより透過するものとして限りなく薄く、不安なまなざしで胎内に浮遊している。

[2011/1/22]



[9月の創発2010]
【№17】

[会場写真]
「柳井嗣雄展」会場写真

「柳井嗣雄展」パフォーマンス写真