[9月の創発2010レビュー]
里山の古い建物にて(下里分校)を観て。
とてつもない猛暑日が続き、過酷ともいえる制作期間を経て、無事に展覧会初日となり、来場者を迎えはじめる。
まずは、伊東孝志氏の作品のまぶしい白さが校庭に際立っている。これは下駄箱?と思うけれど、伊東氏曰く、骨箱の大きさだと言う。その数95。人生を表す数字とも言える。子どもたちが賑やかに遊んだであろう校庭に何故死のイメージなのか?骨箱の大きさなんて、普段意識している人はあまりいないだろう。作品のまわりには、遊具と大きさを同じくする円が石灰で描かれている。角に対する丸は、笑顔を呼び未来を感じさせると思いきや、ひとつの円の中に置かれた石は墓標のイメージとのこと。
校舎へ入り、きれいな緑色の冬瓜が前かごに入った自転車を見つけ、小林耕平氏の作品に出会っていく。映像の中の作者が動かす紙コップやティッシュペーパーを目で追いながら、これから起こる何かを待ちながら映像に見入る。映像の中の作者が動かす小物は、すべて教室のどこかに置かれている。しかし「何か」は起こらず、期待を裏切られ、何気なく教室を見渡すと、夏の夜に集まって動かなくなった虫たちも作品の一部となっている。初日は、作者でさえも映像の中から現れたように同じ服で登場。オッ!?と思う。
新井淳一氏の作品は、彼が旅してきたヨーロッパの風景がモノトーンで描かれている。キャンバスは教室の床に直に立て掛けられ、黒板にはほとんどの人が読めないであろう文章がドイツ語や英語で綴られている。単語さえ分からない伝わらない文字が意図するものは何だろう・・・。
滝澤徹也氏の作品は何気なく教室に置かれ、場に馴染んでいる。子どもたちが使った机に、拓本を思わせる技法で和紙に机の文様を浮かび上がらせる。机が語る記憶という意味なのだろうか? 聞くところによると、かなりの複雑な作業工程を経て制作されたらしい。何度も見ているうちに、最初の印象と違う力強さを感じた。
柳健司氏の作品が置かれた教室は、大きな広がりを感じる。緑のドローイングを背景にして、教室の机が殊のほか小さく感じられるのだ。整列した机の上にはそれぞれ小さな白いラッパが置かれている。手に取って耳に当てると、私の血液の流れる音が聞こえる。貝のささやき現象と思うけれど、胎児が聞くお母さんの心臓の音や血流の音を想像させる。ある言葉を思い出す。「トランペットは最も死に近い楽器であり、そして人を勇気づけることのできる楽器」
最後にもうひとつの伊東氏の作品に迎えられる。一歩部屋に入ると暗闇に包まれ一瞬視界が奪われる。(後に安全策で足元にだけ光を入れた) ほのかな光に近づきピンホールを覗き込むと、明るい外の風景が天地左右逆に写っている。小さな穴から見える世界と自分が踏みしめている地、どちらが本当の世界?という問いかけに、何度もピンホールを覗き込み風景を確かめる。
今回、様々な制約に縛られ、猛暑が続く中、作家たちは作品を作り上げた。展覧会の二日目からは雨が降り続き、とたんに秋の気配になり、季節が一変してしまう開催期間であった。現代美術が分からない、私もそんなひとりだった。作家に何でも質問してくださいと伊東氏は勧めてくれた。実際そういう場に遭遇し、あまりに素朴で一般的な質疑応答は、とても楽しいひとときだった。聞きたくても聞けなかったこと、聞ける機会もなかったこと、そんなアートの敷居は私の中で少しだけ低くなった。私たちがふだん何気なく見ているものを、作家は新鮮な切り口で引き出し、私たちに提示してくれるものなのかもしれない。
展覧会の搬出日、作品は数時間であっけなく片付けられてしまった。保存されることもなく、その場には残らない。私たちの心の中に、いろいろな印象で残像がとどまり、その場に居た自分をも反芻する。分校にもまたひとつの記憶が増えたのだろう。下里分校の懐かしさを感じさせる建物と山あいの雰囲気を楽しみつつ、純粋に美術作品を楽しんでほしいという、そんな作家たちの想いが伝わってくる展覧会だった。
「また小川でオモシロイコト」を伊東氏は考えているという。そのオモシロイコトを再び楽しみに待つことにしよう。
里山の古い建物にて(下里分校)を観て。
松本ふみ江(本展ボランティア)
わくわくしていた。下里分校で現代美術の展覧会が開かれるという。小川町の中でも、下里地区は山あいの里と呼ぶにふさわしい雰囲気があり、自然が豊かな地域である。そんな中に在る下里分校は現在休校となっているが、地域の人達により大切に守られている建物と、以前から聞いていた。「地元で見られる現代美術の展覧会」と「初めて訪れる下里分校」楽しみはふたつになった。さらにボランティアとして今回の展覧会に関わる機会を得て、私の「初めて」は増えていく。とてつもない猛暑日が続き、過酷ともいえる制作期間を経て、無事に展覧会初日となり、来場者を迎えはじめる。
まずは、伊東孝志氏の作品のまぶしい白さが校庭に際立っている。これは下駄箱?と思うけれど、伊東氏曰く、骨箱の大きさだと言う。その数95。人生を表す数字とも言える。子どもたちが賑やかに遊んだであろう校庭に何故死のイメージなのか?骨箱の大きさなんて、普段意識している人はあまりいないだろう。作品のまわりには、遊具と大きさを同じくする円が石灰で描かれている。角に対する丸は、笑顔を呼び未来を感じさせると思いきや、ひとつの円の中に置かれた石は墓標のイメージとのこと。
校舎へ入り、きれいな緑色の冬瓜が前かごに入った自転車を見つけ、小林耕平氏の作品に出会っていく。映像の中の作者が動かす紙コップやティッシュペーパーを目で追いながら、これから起こる何かを待ちながら映像に見入る。映像の中の作者が動かす小物は、すべて教室のどこかに置かれている。しかし「何か」は起こらず、期待を裏切られ、何気なく教室を見渡すと、夏の夜に集まって動かなくなった虫たちも作品の一部となっている。初日は、作者でさえも映像の中から現れたように同じ服で登場。オッ!?と思う。
新井淳一氏の作品は、彼が旅してきたヨーロッパの風景がモノトーンで描かれている。キャンバスは教室の床に直に立て掛けられ、黒板にはほとんどの人が読めないであろう文章がドイツ語や英語で綴られている。単語さえ分からない伝わらない文字が意図するものは何だろう・・・。
滝澤徹也氏の作品は何気なく教室に置かれ、場に馴染んでいる。子どもたちが使った机に、拓本を思わせる技法で和紙に机の文様を浮かび上がらせる。机が語る記憶という意味なのだろうか? 聞くところによると、かなりの複雑な作業工程を経て制作されたらしい。何度も見ているうちに、最初の印象と違う力強さを感じた。
柳健司氏の作品が置かれた教室は、大きな広がりを感じる。緑のドローイングを背景にして、教室の机が殊のほか小さく感じられるのだ。整列した机の上にはそれぞれ小さな白いラッパが置かれている。手に取って耳に当てると、私の血液の流れる音が聞こえる。貝のささやき現象と思うけれど、胎児が聞くお母さんの心臓の音や血流の音を想像させる。ある言葉を思い出す。「トランペットは最も死に近い楽器であり、そして人を勇気づけることのできる楽器」
最後にもうひとつの伊東氏の作品に迎えられる。一歩部屋に入ると暗闇に包まれ一瞬視界が奪われる。(後に安全策で足元にだけ光を入れた) ほのかな光に近づきピンホールを覗き込むと、明るい外の風景が天地左右逆に写っている。小さな穴から見える世界と自分が踏みしめている地、どちらが本当の世界?という問いかけに、何度もピンホールを覗き込み風景を確かめる。
今回、様々な制約に縛られ、猛暑が続く中、作家たちは作品を作り上げた。展覧会の二日目からは雨が降り続き、とたんに秋の気配になり、季節が一変してしまう開催期間であった。現代美術が分からない、私もそんなひとりだった。作家に何でも質問してくださいと伊東氏は勧めてくれた。実際そういう場に遭遇し、あまりに素朴で一般的な質疑応答は、とても楽しいひとときだった。聞きたくても聞けなかったこと、聞ける機会もなかったこと、そんなアートの敷居は私の中で少しだけ低くなった。私たちがふだん何気なく見ているものを、作家は新鮮な切り口で引き出し、私たちに提示してくれるものなのかもしれない。
展覧会の搬出日、作品は数時間であっけなく片付けられてしまった。保存されることもなく、その場には残らない。私たちの心の中に、いろいろな印象で残像がとどまり、その場に居た自分をも反芻する。分校にもまたひとつの記憶が増えたのだろう。下里分校の懐かしさを感じさせる建物と山あいの雰囲気を楽しみつつ、純粋に美術作品を楽しんでほしいという、そんな作家たちの想いが伝わってくる展覧会だった。
「また小川でオモシロイコト」を伊東氏は考えているという。そのオモシロイコトを再び楽しみに待つことにしよう。
[2010/12/24]