[9月の創発2010レポート]
■ヨシズミトシオ
昨年、「ありあるクリエーションズ」主催により、古河市にある街角美術館でヨシズミ トシオさんの母親の三回忌を兼ねた展覧会が開かれた。そこで私は、ヨシズミさんの作品と併せてご両親の遺作もまとめて見ることができた。
几帳面に描かれたお母さんの水彩画、クレヨンと色鉛筆だけで描かれた飄々としたお父さんの絵は、本人は至ってまじめに描いているにもかかわらず、見ているうち思わず笑みを誘われるものだった。一切の思考や技巧を排することで、1本1本の線からは逆にその人の生き方までもが透けて見えてくるようなのだ。
ヨシズミさんは1952年に生まれた。自然や生き物と触れ合い、創作事に熱中する幼年期を過ごした。小学校2年生のときには、すでに絵描きになりたいと考えていたらしい。
中学校に上がり一人の熱血美術教師と出会った。2年の夏休みのとき、この教師は創作の得意な生徒を5名ほど選び、ブリジストン美術館などを見に連れて行ってくれた。ヨシズミさんは、この時の感動を今でも鮮烈に憶えているという。
高校時代は3年間美術部に在籍し、独学で作品制作に没入していった。都内の美術館や画廊にも自分で通うようになり、本格的に絵を描き始めることとなる。画材代はゴルフ場でキャディーのアルバイトなどをして自ら稼いだ。いつしか東京藝術大学への入学を目指すようになった。
高校卒業後、アルバイトをしながら都内の美大受験予備校に通った。東京藝術大学だけを目指して2度受験するが、いずれも失敗。以後、独自の道を歩み始める。
19歳の時、銀座で初めての個展を開いた。それ以前から出品していた東京都美術館の公募団体展でも、この年準会員に推挙され翌年には会員に推挙されるが、こちらは5回出品して退会。
このころはグザヴィエ・ド・ラングレの名著『油彩画の技術』などを通して油彩技法の歴史を学び、またレンブラントなど古典絵画の影響から重厚感のある色調の作品を描いていた。
同じ年、アパート暮しを始めるが、引越しの3日後には2度目の個展のオープニングを控えていた。そしてその2ヵ月後に3度目の個展といったぐあいで、絶え間ない制作の日々が続いた。その合間を縫っては神田の古本屋に出かけて、また活力を得るため見知らぬ土地を徘徊し、さらには住居も転々と変えていくことになる。
1972年、団体展に出品していた作品が、たまたま銀座にある大阪フォルム画廊の2人の店員の目に止まった。この画廊に出入りするうち、グリーングラフィックスという版画工房を紹介され、そこで銅版画とリトグラフを制作するようになる。技法書や歴史上著名な作家の画集を参考にしながら、さまざまな技法を習得していった。しかし間もなく、社長の死に伴って画廊は閉鎖し、その後はエッチングとリトグラフ用のプレスを入手して自ら摺りを行うようになる。
100号の大作が売れたのを機に、ヨシズミさんはヨーロッパに旅に出た。パリなど都市の画廊を廻るうち、日本ではよく知られた作家もこちらではまったく無名であることを知った。この旅の中で、日本国内だけで発表し続けることの限界を感じ、これからは活動の場を国際的な舞台に移さなければいけないと強く感じた。
スペインのグラナダにある版画のアーティスト・イン・レジデンスへの入学が許可され、1978年から79年にかけてヨーロッパ式の銅版画技法を学んだ。日本で制作した銅版画やリトグラフを見た指導者から「もう何も教えることはないから好きなように制作しなさい」と言われ、ヨシズミさんはここで制作三昧の日々を送った。プロセスを重視した職人的な日本の版画に対し、臨機応変にやり方を変えていくここの即興性が性に合った。
バルセロナの「ホアン・ミロ国際ドローイング展」を皮切りに、クラクフ、カトビツェ、ウッジ、ルブリン、イビザ、グレンヒェン、バルパライソ、ベルリン、ソウル、ヴァルナ、ブダペスト、ジェール、リュブリアナ、プラハ、ヴィルニウス、クルージュ、ティミショワラ、ウジェッツェ、ギザ、ボパール等の国際版画展等に次々と出品し、受賞を重ねていった。
各国での評価が高まるにつれ、ヨシズミさんはこれらの展覧会のいくつかの会議に招聘されるようになった。特にルーマニアでは、アーティストであり「クルージュ国際ミニプリント・ビエンナーレ」のディレクターでもあるオヴィデウ(Ovidiu)とリリオアラ・ペテカ(lilioara Petca)夫妻をはじめ、多数の美術関係者と親交を結んだ。
このビエンナーレは2005年までに5回行われ、今年の秋からはまた新たなプロジェクトがスタートするそうだ。ペテカ夫妻のこうした情熱とそれを可能にする寛容さに、ヨシズミさんは再三に渡り刺激を受けてきた。
知覚から受ける感動をどう作画に導き出せるのか、思考錯誤の日々が昼夜を問わず20年余り続いた。1993年、久々の油彩画による個展を都内で開き、そのひとつの結論が提示された。この個展は、それまでヨシズミさんの活動を支えてくれた多くの人々に対する感謝の表明でもあった。
作品というのは、経験の蓄積が垣間見せる表層の現れだとヨシズミさんはいう。そして、積み重なったそれぞれの層が密着していればいるほど、内実のある作品が生まれる。ゆえに作品を制作することは、自ら積み重ねてきた時間を遡りながらそれらの層を確認していく作業となる。しかしそこを遡上すればするほど、その奥の層が次々と現れてくる。
ヨシズミさんの傍らには、いつも父の絵が置いてある。思えばあの自然さは、古代人の造形と同様に、表層とその最下層とが時空を超え一体化することによってもたらされていたのではないか。だからこそ、見る者をあそこまで深く安堵させることができたのだ。
小さな額に入った作品を眺めながら、ここに至る手がかりさえまだ掴めないとヨシズミさんは苦笑する。
■ヨシズミトシオ
昨年、「ありあるクリエーションズ」主催により、古河市にある街角美術館でヨシズミ トシオさんの母親の三回忌を兼ねた展覧会が開かれた。そこで私は、ヨシズミさんの作品と併せてご両親の遺作もまとめて見ることができた。
几帳面に描かれたお母さんの水彩画、クレヨンと色鉛筆だけで描かれた飄々としたお父さんの絵は、本人は至ってまじめに描いているにもかかわらず、見ているうち思わず笑みを誘われるものだった。一切の思考や技巧を排することで、1本1本の線からは逆にその人の生き方までもが透けて見えてくるようなのだ。
ヨシズミさんは1952年に生まれた。自然や生き物と触れ合い、創作事に熱中する幼年期を過ごした。小学校2年生のときには、すでに絵描きになりたいと考えていたらしい。
中学校に上がり一人の熱血美術教師と出会った。2年の夏休みのとき、この教師は創作の得意な生徒を5名ほど選び、ブリジストン美術館などを見に連れて行ってくれた。ヨシズミさんは、この時の感動を今でも鮮烈に憶えているという。
高校時代は3年間美術部に在籍し、独学で作品制作に没入していった。都内の美術館や画廊にも自分で通うようになり、本格的に絵を描き始めることとなる。画材代はゴルフ場でキャディーのアルバイトなどをして自ら稼いだ。いつしか東京藝術大学への入学を目指すようになった。
高校卒業後、アルバイトをしながら都内の美大受験予備校に通った。東京藝術大学だけを目指して2度受験するが、いずれも失敗。以後、独自の道を歩み始める。
19歳の時、銀座で初めての個展を開いた。それ以前から出品していた東京都美術館の公募団体展でも、この年準会員に推挙され翌年には会員に推挙されるが、こちらは5回出品して退会。
このころはグザヴィエ・ド・ラングレの名著『油彩画の技術』などを通して油彩技法の歴史を学び、またレンブラントなど古典絵画の影響から重厚感のある色調の作品を描いていた。
同じ年、アパート暮しを始めるが、引越しの3日後には2度目の個展のオープニングを控えていた。そしてその2ヵ月後に3度目の個展といったぐあいで、絶え間ない制作の日々が続いた。その合間を縫っては神田の古本屋に出かけて、また活力を得るため見知らぬ土地を徘徊し、さらには住居も転々と変えていくことになる。
1972年、団体展に出品していた作品が、たまたま銀座にある大阪フォルム画廊の2人の店員の目に止まった。この画廊に出入りするうち、グリーングラフィックスという版画工房を紹介され、そこで銅版画とリトグラフを制作するようになる。技法書や歴史上著名な作家の画集を参考にしながら、さまざまな技法を習得していった。しかし間もなく、社長の死に伴って画廊は閉鎖し、その後はエッチングとリトグラフ用のプレスを入手して自ら摺りを行うようになる。
100号の大作が売れたのを機に、ヨシズミさんはヨーロッパに旅に出た。パリなど都市の画廊を廻るうち、日本ではよく知られた作家もこちらではまったく無名であることを知った。この旅の中で、日本国内だけで発表し続けることの限界を感じ、これからは活動の場を国際的な舞台に移さなければいけないと強く感じた。
スペインのグラナダにある版画のアーティスト・イン・レジデンスへの入学が許可され、1978年から79年にかけてヨーロッパ式の銅版画技法を学んだ。日本で制作した銅版画やリトグラフを見た指導者から「もう何も教えることはないから好きなように制作しなさい」と言われ、ヨシズミさんはここで制作三昧の日々を送った。プロセスを重視した職人的な日本の版画に対し、臨機応変にやり方を変えていくここの即興性が性に合った。
バルセロナの「ホアン・ミロ国際ドローイング展」を皮切りに、クラクフ、カトビツェ、ウッジ、ルブリン、イビザ、グレンヒェン、バルパライソ、ベルリン、ソウル、ヴァルナ、ブダペスト、ジェール、リュブリアナ、プラハ、ヴィルニウス、クルージュ、ティミショワラ、ウジェッツェ、ギザ、ボパール等の国際版画展等に次々と出品し、受賞を重ねていった。
各国での評価が高まるにつれ、ヨシズミさんはこれらの展覧会のいくつかの会議に招聘されるようになった。特にルーマニアでは、アーティストであり「クルージュ国際ミニプリント・ビエンナーレ」のディレクターでもあるオヴィデウ(Ovidiu)とリリオアラ・ペテカ(lilioara Petca)夫妻をはじめ、多数の美術関係者と親交を結んだ。
このビエンナーレは2005年までに5回行われ、今年の秋からはまた新たなプロジェクトがスタートするそうだ。ペテカ夫妻のこうした情熱とそれを可能にする寛容さに、ヨシズミさんは再三に渡り刺激を受けてきた。
知覚から受ける感動をどう作画に導き出せるのか、思考錯誤の日々が昼夜を問わず20年余り続いた。1993年、久々の油彩画による個展を都内で開き、そのひとつの結論が提示された。この個展は、それまでヨシズミさんの活動を支えてくれた多くの人々に対する感謝の表明でもあった。
作品というのは、経験の蓄積が垣間見せる表層の現れだとヨシズミさんはいう。そして、積み重なったそれぞれの層が密着していればいるほど、内実のある作品が生まれる。ゆえに作品を制作することは、自ら積み重ねてきた時間を遡りながらそれらの層を確認していく作業となる。しかしそこを遡上すればするほど、その奥の層が次々と現れてくる。
ヨシズミさんの傍らには、いつも父の絵が置いてある。思えばあの自然さは、古代人の造形と同様に、表層とその最下層とが時空を超え一体化することによってもたらされていたのではないか。だからこそ、見る者をあそこまで深く安堵させることができたのだ。
小さな額に入った作品を眺めながら、ここに至る手がかりさえまだ掴めないとヨシズミさんは苦笑する。
[2010/9/25 松永]