[創発2011レポート]

■ 遅れてやってきた最先端-川越の「彫刻のある街づくり」


 1970年代から80年代にかけ、市街地に野外彫刻作品を設置することで、地域住民の生活の質を向上させようという動きが全国的に広まった。それらの多くは、自治体が策定した計画に沿って、短期間にたくさんの作品を置くことを目指した。そこでは、そこに住んでいない美術の研究者が作者を選考し、その土地のことを知らない彫刻家が作品を制作していった。その結果、誰のものかもわからぬ作品が次々と現れ、住民の知らぬうちに街の姿が変貌していったのである。
 囲碁や将棋でも、一手打ったら相手の返し手を待って次の手を考えるものだ。そうしないとゲームは成り立たない。ところがこれまでの公共事業は、住民の反応を見ないまま次の手を打ち続けてきたように思う。だからこそ住民は、地域づくりに対してこれほどまでに無関心になってしまったのではないか。

 1970年代に入り全国組織である青年会議所では、単に営業利益を求めるだけでなく、地域づくりのために貢献しようという目標が掲げられるようになった。そうした目標のもとに、支部ごとにさまざまな試みが行われるようになる。当時は、山口県の宇部市野外彫刻展や兵庫県神戸市の須磨離宮公園現代彫刻展が、彫刻を用いた新たな街づくり事業として注目されていた。それらを手本として、東京の八王子市では青年会議所が中心となり1976年から「八王子彫刻シンポジウム」が始められた。
 そんな中、川越市でもまた青年会議所が主体となって野外彫刻を使った祭典をやろうということになった。これを仕掛けたのは、当時の川越青年会議所理事長の齊藤英雄と実行委員長の三上泰弘だった。齊藤は電子機器類の流通卸を専門とする(株)サンテックスという会社を経営しており、三上は祖父の代から続く(株)三上工務所の経営者だった。
 齊藤と三上は、川越出身の彫刻家の橋本次郎に協力を求め、さっそく彫刻家の人選に入った。充分な予算もなかったため、6人の若手作家に参加を依頼することとなった。会場には、再開発のため空き地となっていた川越駅西口広場が当てられた。1977年、このようにして「川越野外彫刻シンポジウム」は華々しく幕を開けるが、その後、この事業が継続して行われることはなかった。
 ところで、同シンポジウムの出品者のひとりに、東京藝術大学を卒業したばかりの田中毅がいた。田中は、シンポジウム終了後も近所に家を借りてこの土地に住み着くようになった。狭い場所で制作を続けている田中の姿を見かね、三上は会社の敷地内の作業場を提供することにした。以降、三上と田中は家族ぐるみの付き合いを続けるようになる。

 時代は遡り1968年のことである。川越の外れの伊佐沼のほとりに卸業者のための卸売団地が開設され、その運営母体として川越卸売商業協同組合が結成された。最初は26社の入所だったが、規制緩和や情報化、円高等の影響で流通産業が拡大し、1988年には土地を拡張して49社を擁する大所帯となる。ところが、間もなく流通機構の改編により卸部門と小売り部門の統合が進み、単独の卸売業者の数は減少していった。
 そんな中で1995年、同組合は設立後四半世紀経たことを機に名称を「(協)川越バンテアン」と変え、組合活動の心機一転を図ることにした。フランス語で21を意味する「バンテアン」という言葉は、企業としての社会責任を果たすことを目指す、文字通り21世紀型の新たな協同組合づくりへの意気込みを示していた。
 さらに時が経ち、川越バンテアンでは、設立40周年に向けて新たな事業の立ち上げが検討されていた。このとき齊藤と三上はとうに青年会議所を卒業し、特に齊藤は川越商工会議所会頭および川越バンテアン理事長という川越の今後を担う立場になっていた。三上とともに事業案を練りながら、齊藤は、川越をさらに充実した街とするためには文化力の向上が不可欠だと考えるようになった。そのとき2人の心に、彫刻による街づくりを目指した30数年前の思いが熱く甦えっていたことは想像に難くない。
 齊藤に限らず、川越バンテアンには川越商工会議所の会員を兼ねている者が数多い。そこで商工会議所との機能分担も必要となる。商工会議所は街に密着しているため、利益を地域に還元することで事業実績も必然的に伸びてくる。そのため、そこで行う地域貢献活動は即効性のあるものに向きやすい。
 一方で、では流通を担う卸商組合にはいったい何ができるのか。営業実績に直接結びつかない分、却って長期的な展望に立った事業が考えられるのではないか。そのためには、さまざまな文化体験を促し新たな川越を創造するための拠点づくりが有効だろう。そしてそれならば、芸術家支援と芸術愛好家層の拡大を図るための新たな施設を建設しようではないかという結論に達したのだった。
 いよいよ「川越バンテアン創立40周年事業実行委員会」が立ち上がり、常務理事だった小谷野和博(現理事長)が実行委員長に着任した。彫刻に焦点を当てた事業を行っていくことも川越バンテアンで承認された。彫刻家が作品を制作して人々と交流し、できれば産地直売も行えるような場所にしたい。そして市民との信頼関係を深めるため、できるだけ決まった作家に使ってもらおうというのだ。公共的な事業として不特定多数の美術家を紹介することはよくあるが、このように特定の彫刻家を継続的に応援していこうというプロジェクトは日本ではあまり例がなかった。
 実行委員たちは、ここで制作を行う彫刻家を探し始めた。維持費はすべて工房側が負担し、電気代だけを美術家が支払うという条件だ。この展開もまた35年前を思い出させる。当時と異なるのは、今回相談を持ちかけたのが、あのとき川越に呼ばれてきた田中であったということだ。田中はさっそく委員会の要望に応えられるような彫刻家に声をかけ、田中に加えて岩間弘、奥野誠、平井一嘉の4人がこの工房に入所することとなった。
 2010年3月31日、新たに整備された「伊佐沼冒険の森」の一角に「伊佐沼工房」がオープンした。市長も出席して、華々しいセレモニーが開かれた。ここはNPO法人として運営されることになり、齊藤が初代理事長に就任した。川越バンテアンに加え、商工会議所や観光協会からも多くのメンバーが参加した。そしてその8月、大任を終えた齊藤が理事長を引退し、工房の運営は新たに理事長となった小谷野の手に引き継がれた。

 ところで川越では、2000年から市立美術館を使って「川越を描くビエンナーレ」という絵画コンクールが開かれていた。川越の生んだ画家、相原求一朗の遺志を継ぎ、商工会議所が音頭を取って、当時の川越市長であった舟橋功一の肝いりで始められたものだ。全国の絵画愛好家を対象に川越を題材とした作品を描いて応募してもらい、その中から優れたものを買い上げて市内の公共施設などで公開してきた。
 同展は2009年まで4回実施されたが、市長の交代に伴い事業名が「川越を描くビエンナーレ」から「小江戸川越トリエンナーレ」へと変更された。また、これまでは絵画だけのコンクールだったが、新たに彫刻部門を併設することになった。彫刻部門では、野外に設置することを想定したマケット作品を募集し、まず市立美術館で入選作品の展示を行う。そしてその中から優秀作を選び、その受賞者が伊佐沼工房を使って本作品を制作する「川越彫刻シンポジウム」を行うという手はずである。
 関係者たちは、この事業を行いながら街と彫刻の関わりを考え、彫刻を用いた街づくりを進めていきたいという。具体的には、市立美術館から伊佐沼まで続く道沿いに彫刻を置いていく。市にはそこを「花の道」とする計画があるため、やがては花と彫刻とが一体となった市民のための散策路になるのだろう。そしてさらに将来的には、伊佐沼の公園全体を彫刻の森にしてゆきたいと夢は広がる。

 冒頭で述べたように、1970年代から80年代にかけ全国で「彫刻のある街づくり」構想が展開した。しかし実際には、彫刻によって結果的に街を汚してしまった例も少なくない。巷でささやかれた「彫刻公害」という言葉がそれを示している。川越もまたその先鞭をつけたものの、それはすぐには継続しなかった。歴史の中で川越の人々には、一過性のものを見極める目が培われており、それがその動きを無意識の内に押し止めていたのかもしれない。
 戦後続いてきた経済成長が終わり、作っては壊しを繰り返せる時代ではすでになくなっている。これからは、いかに持続可能な社会を作るかが最重要課題なのだ。そのためには、ひとつの投げかけに対する反応を待ち、それを受けて、では次にどんな手を打つか考えることのできる精神的余裕が不可欠だろう。時間をかけて真に住みやすい街を作っていこうとする川越の「彫刻のある街づくり」構想は、今、始まったばかりだ。

[2011/10/21 松永]



[創発2011]
【№11】

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