[創発2012レポート]

■ 川越画廊


 川越画廊は、埼玉では浦和の柳澤画廊と並ぶ現代美術画廊の老舗である。ここを経営するのは金子勝則さんだ。柳沢画廊と同様、川越画廊もまたこれまで版画を軸に展示を行ってきた。
 金子さんは1954年、富士見市に生まれ、1978年から83年まで東京にあった現代版画センターに勤務。退社後、間もなく川越の蓮馨寺近くに小さな画廊を開いた。1984年4月のことだった。都内で開業することも考えたが、川越もそこそこの都会であり、何より家賃が断然安かったのに魅かれた。当初は会場を一般に貸し出すことも考えたが、それをすると自分のやりたい展覧会の準備ができなくなることがわかり、画廊で行う展覧会は自主企画だけに絞ることとした。
 最初は関根伸夫氏の個展で幕を開けた。関根氏は版画センター時代からの知り合いで、関根氏もまた金子さんが川越高校の同窓生であることを知り、さまざまに助言をしてくれた。その後もこの画廊では、現代版画センターを通して知り合った作家の作品をしばしば展示することになる。
 ときには地元作家を紹介する展覧会を開くこともあったが、それらはあまり売り上げにつながらなかった。作家の知り合いがたくさん来てご祝儀も置いていってくれるのだが、なぜか作品はあまり買わない。むしろ作家を知らない人の方が買っていく。要するに作者から直接買える人たちは、わざわざ画廊を通して買おうとはしないのだ。そういう基本的なことも少しずつわかってきた。
 ところで川越には、1975年から活動を続けている「川越ペンクラブ」というのがあり、そこが市内の有識者の集まりとなっていた。開廊して間もないころ、この画廊がクラブの人たちの溜り場になったこともある。彼らとの雑談を通して、金子さんは川越の文化や人のつながりについて多くを学んだ。そこで得た知識が、この地で事業を続けていくための重要な基盤となったのだ。
 「川越蔵の会」もまた金子さんが画廊を開いたころ結成された団体だ。この会は、老朽化していた川越の蔵造りを再生させることで、川越の街興しを図ろうとしていた。彼らの活動によりその後、画廊周辺の蔵まち通りは一新され、川越は「蔵の街」として全国的に知られるようになった。こうした川越の変遷とともに、金子さんもまた独自の画廊の色を作り上げていったのだろう。
 画廊と一言で言っても、そこにはさまざまな運営のしかたがある。金子さんの第一のモットーは「借金をしない」ことだという。これまで多くの美術家と関わる中で、彼らの作品をコツコツと収集し続けてきた。いわゆるマーケット・タイプの作家は扱わないが、コレクター向きの作品のストックは相当なものらしい。だから初めて見た作品であっても、コレクター向きかどうかすぐにわかるという。こうした資産を活かして、近年はネット・オークションでの販売にも力を入れているそうだ。
 敗戦後、日本には富裕層と呼ばれる人たちがいなくなり、財産はすべて会社の持ち物となった。だから嗜好品と言われる美術品には、なかなかお金が回らなくなった。しかし動くお金には限界があっても、人だけは動き続けている。その「人」こそが本当の財産だと、金子さんは断言する。
 川越画廊は1995年に現在の場所に移った。川越は、古くから変わらぬ人の結びつきがある一方で、変化に俊敏に対応することのできる機動力を兼ね備えている。変化する力と変わらない力。その併存が川越の魅力であり、強さなのかもしれない、そして、その相違える2つの力をしなやかに結びつける新たなものの見方を提示することが、川越で求められる美術の意義なのではないか。

[2013/6/19 松永]



[創発2012]
【№13】

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